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店が少し落ち着いた頃、スタッフから声をかけられた。
「ナナさん、真瀬様です」
「はい」
席へ向かう。
真瀬さんはいつも通りだった。
席に着くと、軽く目を合わせる。
「こんばんは」
「こんばんは」
それだけで、会話が始まる。
真瀬さんの前では、いつもそうだった。
何か特別な話題を用意しなくてもいい。
私はグラスに手を添えながら、店の中を少し見渡した。
今日は忙しい。
あちこちから声が聞こえる。
笑い声。
グラスの音。
スタッフが行き交う音。
その中にいても、真瀬さんの席だけは妙に静かだった。
「今日、忙しいね」
「そうですね」
「疲れた?」
「まだ大丈夫です」
言ってから、少し笑った。
また「大丈夫」と言っている。
最近、自分でも気づく。
私は何か聞かれると、反射的にそう答えることが多い。
真瀬さんは何も言わなかった。
ただ、少しだけ私を見る。
「……何ですか?」
「別に」
「今、何か考えてました?」
「考えてた」
「何を?」
「ナナ、最近よく笑うなって」
私は一瞬、言葉が止まった。
「そうですか?」
「うん」
「前は笑ってなかったですか?」
「笑ってたよ」
真瀬さんは少し間を置いて、
「でも、今とは違う」
と言った。
私はグラスを持ったまま、動けなくなった。
こういうところだ。
真瀬さんは、たくさん話すわけじゃない。
なのに、時々、私が自分では言葉にしていないことを、そのまま拾う。
「……何が違うんでしょう」
「分からない」
「分からないんですか」
「分からない」
私は少し笑った。
「真瀬さんでも分からないことあるんですね」
「あるよ」
その答えが妙におかしくて、また笑った。
真瀬さんも少しだけ笑う。
それから、二人とも黙った。
いつもの沈黙だった。
以前なら、私はこういう時間が少し苦手だった。
何か話さないといけない気がした。
相手が退屈していないか。
私といて楽しくないんじゃないか。
何か変なことを言ったんじゃないか。
そういうことを考えてしまう。
でも今日は、そこまで気にならなかった。
ただ、隣にいる。
それだけでよかった。
そのことに気づいて、自分で少し驚いた。
「ナナ」
「はい」
「静かだね」
「……考え事してました」
「そう」
「何考えてるか、聞かないんですか?」
「聞いてほしい?」
私は少し考えた。
「……分かりません」
「じゃあ聞かない」
思わず笑ってしまった。
「そこは聞くところじゃないですか?」
「聞いてほしいなら言うでしょ」
「そうですけど」
「じゃあ、いいんじゃない?」
まただ。
この人は、私が答えを出すまで待つ。
待つというより、
答えなくてもいいと思っているのかもしれない。
私はその距離が好きだった。
そう思った瞬間、少しだけ胸がざわついた。
好き。
その言葉が頭に浮かんだ。
でも、すぐに打ち消す。
たぶん、そういう意味じゃない。
居心地がいいから。
話しやすいから。
気を遣わなくていいから。
そういう「好き」だってある。
私は自分にそう言い聞かせた。
「今日、何かあった?」
「特には」
「そう」
「……真瀬さんは?」
「特にない」
「じゃあ、お互い何もないですね」
「そうだね」
また笑う。
何もない。
本当に、何もない会話だった。
でも私は、その時間が終わってほしくなかった。
しばらくして、真瀬さんが時計を見る。
「そろそろ帰る」
「はい」
席を立つ。
「今日もありがとう」
「こちらこそ」
真瀬さんはそのまま店を出ていった。
私はその背中を見送った。
いつもなら、次の席へ向かう。
仕事だから。
でも今日は、少しだけ動けなかった。
ほんの数秒。
それだけだった。
「ナナちゃん」
後ろから高槻さんの声がした。
振り返る。
「何してんの?」
「何も」
「ふーん」
高槻さんは私を見て、少し笑った。
「また考え事?」
「……そうかもしれません」
「最近多いね」
「そうですね」
「何考えてるの?」
私は答えようとして、やめた。
真瀬さんのこと。
さっきの会話。
あの人といる時の自分。
そして、さっき頭に浮かんだ言葉。
好き。
私はそれを口にしなかった。
「まだ分からないです」
そう言うと、高槻さんは少しだけ目を細めた。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
私はまた仕事に戻った。
笑って。
話して。
いつも通りに。
でも、さっきまでとは少しだけ違った。
私は自分の中に浮かんだ言葉を、完全には消せなくなっていた。
真瀬さんのことが好きなのかもしれない。
まだ分からない。
でも、
そうかもしれないと思ったこと自体は、
もう無かったことにはできなかった。
コメント
1件
もう… この静けさの中にある熱、ずるいですよ、、、 真瀬さんの「最近よく笑うなって」、あれ、ほんとにずるい。 何気なく言ってるようで、ちゃんとナナちゃんを見てるって伝わるんです。 それに、答えを急かさない距離感が、もうたまらなくて。 最後の「好きかもしれない」を無かったことにできなかった。 その一文だけで、全部が変わっていく予感がする、、、 ほんと、胸がぎゅっとなりました。 ruruhaさんの描く静かな空気感、毎回心に沁みます、、、ありがとうございます。