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#すれ違い
おまる
#ワンナイトラブ
週明けの朝、常盤リビングの製造フロアは、始業前から慌ただしかった。
試用会で拾った意見をもとに、スナップボタン付きマルチポーチの最終調整は固まったはずだった。ところが量産前の確認で、ボタンの受け側の一部にわずかなずれが見つかった。押した瞬間にきれいに留まるものと、角度によっては浅くしか噛まないものがある。大人なら留め直せても、子どもの手では一回の迷いが大きい。
優元は検査台の前で試作品を押し込みながら言った。
「百のうち七。多いです」
「原因は」
麗がすぐに聞く。
「金具そのものじゃない。布の厚みと圧着の順番が揺れてる」
発売まではもう数日しかない。ここで止めれば予定が崩れる。それでも、迷う商品は出せなかった。
「順番、組み替えます」
麗は即座にノートを開いた。
「午後の確認会議を前倒しします。知雅さんには図鑑の入稿を後ろへ。夢鈴さんには動画差し替え待機。悠太朗さんは取引先説明を先に。妃雛さんは告知文を二本」
「二本?」
「早まった場合と予定通りの場合。今は両方いります」
妃雛は一瞬だけ口を尖らせたが、すぐにパソコンを開いた。誰が何のために急いでいるのかが、ようやく部署を越えて見えるようになっていた。
晴哉も自分の役目は分かっていた。調整、連絡、説明、謝罪。こういう時ほど動けるのが自分だと思っていた。
けれど昨夜は、父の腰をかばって漬物店の仕込みをほとんど一人でやった。祖母を休ませたあと、図鑑の文も見直した。眠っていないわけではない。だが、眠ったと言うには短すぎた。
昼を過ぎたころ、スマートフォンが震えた。父からだった。
『明日の朝も仕込み、ちょっと厳しい。悪い』
責める言葉はないのに、その短さがきつかった。大丈夫、と返そうとして、晴哉の指が止まる。そう言えば丸く収まる。相手も安心する。自分もいつもの顔に戻れる。
けれど今は、その二文字が喉の奥で引っかかった。
返信欄を開いたまま立っていると、給湯室の前で麗と目が合った。麗は何も聞かず、白湯の入ったマグを差し出す。
「さっきから三回、同じ行を見ています」
「そんなに分かりやすかったですか」
「分かりやすいです」
会議室の隅に並んで座ると、晴哉はようやく口を開いた。
「実家が、ちょっときつくて。父の腰がまだ戻らなくて、朝も夜も手が足りないんです」
「はい」
「言ったほうがいいって分かってたんです。でも、会社でまで家の事情を持ち込みたくなくて」
「だから、大丈夫って言うんですね」
「……そうです」
麗はマグの湯気を見ながら小さく言った。
「その言葉、便利ですよね。言った側も、言われた側も、一回は楽になれるから」
「でも、残るほうは苦しいです」
晴哉は返せなかった。あの夜、何も言わないまま麗を不安にさせたことを思い出す。
「今は言ってください」
麗はやわらかい声で続けた。
「平気じゃないなら、平気じゃないって」
言えば崩れると思っていた。明るくしていられる自分も、任せても大丈夫だと思われている位置も。けれど、それで守れているもののほうが少ないと、もう分かっていた。
「……俺も、つらいです」
大きな告白ではない。ただ、今まで避けてきた一言だった。
麗は驚かず、静かにうなずいた。
「はい」
それから少しだけ強い声で言う。
「一人で背負わないでください」
「でも、仕事もあるし」
「あります。私もあります」
「実家も」
「それもある」
「全部、同時に来るんですよね」
「来ます」
麗はそこで、ほんの少し目元をゆるめた。
「だから分けましょう。今日の連絡は私も見ます。取引先の説明は晴哉さんの言葉のほうが届くから、そこはお願いしたいです」
「麗さん」
「朝の仕込みがある日は、最初から言ってください。進行表は私が引き直します」
きっぱりした言い方に、晴哉はつい笑ってしまった。今度は、取り繕うためではなく笑えた。
午後、優元は再圧着の順番を変え、知雅は図鑑の入稿時刻をずらし、夢鈴は動画の仮ナレーションだけ先に録り直した。悠太朗は取引先へ説明を入れ、妃雛は本当に二本の告知文を仕上げてきた。今日は誰も、自分の持ち場だけに閉じこもっていなかった。
それでも夕方の再検査で、七個あった不安定な個体は二個までしか減らなかった。良くはなっている。だが、麗の表情は緩まない。
「二個の理由を切り分けます」
優元が言う。
「このまま夜まで見ます」
「私も残ります」
麗がすぐに返した。
晴哉は思わずそちらを向いた。これ以上無理をしてほしくなかった。
「麗さん、今日は俺と優元さんで」
「嫌です」
「嫌って」
「晴哉さんこそ、朝から限界に近い顔をしてます」
「でも」
「でも、じゃないです」
その言い方がおかしくて、隣で優元が小さく咳払いをした。
「残る人間は三人。じゃあ分担しましょう。麗さんは記録、晴哉さんは確認と連絡、俺は手を動かす」
機械の音が続くフロアで、三人は黙々と役割を回した。数字を書く。写真を撮る。業者へ問い合わせる。時計の針だけは容赦なく進むのに、不思議と午前ほど息苦しくはなかった。自分の分だけではなく、隣の人の分まで見えていたからかもしれない。
夜十一時を過ぎたころ、最後の再検査で、問題の二個がようやく基準通りに留まった。優元は深く息を吐き、麗は記録表を見つめたままペン先を止める。
「……いけます」
「これなら朝一の再確認で判定に回せる」
晴哉も同じ表をのぞき込んだ。
作業場を出た時には、社内の大半の明かりが落ちていた。窓の外では、東の空がほんの少しだけ薄くなり始めている。晴哉が立ち止まると、隣に麗が並んだ。
「胸が苦しくなる時って」
晴哉は窓の外を見たまま言った。
「何かがだめになる時じゃなくて、だめにしたくないものが多すぎる時なんですね」
麗はしばらく黙って、それから小さく答えた。
「そうかもしれません」
「今日、やっと分かりました」
「遅いです」
「すみません」
「でも、言いました」
「言いました」
「なら、次からはもう少し早く」
「努力します」
麗はそこで、ほんの少しだけ笑った。東の空の色がさらに淡くなる。
「間に合う」
それから、わずかに間を置いて続ける。
「今度は、ちゃんと一緒に」
その言葉は、朝の光より先に、晴哉の胸の奥へ届いた。
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