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――2026年7月21日 午前六時三十分
** ■■県童ノ宮市湯山町麓 民宿「ふもと」三〇三号室**
――うっうううううんんっ……。
聞こえる。子どものうなされ泣いている声が。
そう意識した瞬間、私は目を覚ましていた。
まず目に飛び込んできたのは、見慣れたアパートの安っぽいそれとは違う天井。素材は分からないけれど、重厚で黒々とした木目の天板が見つめ返してくる。
そうだった。今、私は旅行中だ。
首を巡らせ、すぐ隣に敷かれた布団に目を向ける。
……いた。ちゃんといた。
苦しそうにしているのは可哀想だけれど、小さな胸が上下していることから呼吸していることがわかる。幻とか私の妄想とかじゃない。現実だ。そう思った瞬間、鼻の奥が詰まり、胸がジンワリと温かくなって、涙がこぼれた。
指先が震えるのを感じながら、プランケットを跳ねのけ布団の上で大の字になっている小さな男の子に私は手を伸ばしていた。丸みを帯びた頬に触れると、見た目以上にすべすべしていてやわらかく、あたたかだった。
栗原マキオ。もうじき六歳になる私の息子。
怖い夢でもみているのだろうか?
マキオはまだうなされ、低く呻いている。だけど、こういう時は無理に起こすと脳に大きなストレスを与えてしまうと、何かの育児書で読んだような気がする。
息子に触れたまま、私が考えあぐねていると――
腹の上に乗せていたブランケットを跳ねのけ、マキオが身体を起き上がらせていた。その以外にもアクティブな動きに驚かされ、とっさに私は伸ばしていた手を引いてしまう。
数秒の間、マキオはうっすらと開いた瞳で宙を見上げていたが
「――申し訳ございませぬ、母上様」
目を丸くしている私の前でマキオは畳の縁に両手をそえ、深々と土下座。一体、どこで身に着けてきたのと聞きたくなるような、美しく洗練された所作だった。
「マキオの魂魄はいまだ深く幽世の底に沈んでおりまする。直、浮かび上がって参りまする。しばしお待ち頂きたく候」
……なにそれ。
まするとか、候とか。
そんな言葉遣い、どこで覚えたの?
そう尋ねる暇もなく、そのまま力つきたかのように上半身を前のめりに崩し、スース―とまた寝息を立て始める幼い息子の姿に私は思わず声を出して笑ってしまう。
多分、マキオは夢の中で芝居のお稽古真っ最中なのだろう。それにしてもずいぶんと時代がかった話ことばだ。当然と言えば当然だけど、マキオは私のことを普段、母上様とは呼ばない。年相応、普通にママ呼びだ。
一所懸命、台詞を覚えようと努力した結果、無意識に言葉として飛び出てきたのだろう。このままでは息が苦しいだろうと、横たわったマキオの体の向きを仰向けに直してやりながら私は今さらのように思った。
かわいい。やっぱり、私の子は世界で一番だ。
それからキッカリ一時間後――。
目覚まし時計がアラームを鳴らし始めるその瞬間にマキオはパッチリとその大きな瞳を開いていた。
「――お腹、すいた」開口一番、マキオは言った。
「ぼくね、ごはん食べたい。お腹ペコペコなの」
「ママもちょっと……。だけど、食堂が開くのは九時からだから、少し待たないとね」
「えええっ……」
「マー君は朝ごはん、和食と洋食どっちがいい? ご飯か、パンか」
「えっとね、ぎょうざ」
「ご飯か、パンかって聞いてるのにぎょうざって……」
そんな遣り取りを交わしながら、手早くマキオを着替えさせ、私も自分の身支度を整えてゆく。アプリでスケジュールを確認するまでもない。
今日の昼、この街を案内してもらうため、人と待ち合わせをしている。いささか急ぎすぎかもしれないが、小さい子どもを連れて歩く時は不測の事態に備えて、できるだけ早めに動くほうが無難だと思っている。
部屋に備え付けのテレビでマキオお気に入りのアニメを流してしばらく時間を潰した後、部屋を出て一階のロビーに向かう。ホテルが朝食の準備をしている間、そこに併設されている土産物コーナーを覗くつもりだった。
職場の人達、特に社長にはいつも以上にご迷惑をおかけした。一応名目は取材だけど、今回の旅行だって私達親子を気遣ってくれてのことだと言うのはよく理解している。
何としてでもそのご恩を返したいけれど、そのためにはマキオにも頑張ってもらって、この大きなチャンスを掴んでもらわないといけない……。
「うわぁあああ……! すごーい!」
突然、マキオが大声を張りあげた。ほとんど叫び声だ。耳がキーンとして、思わず私は身をすくませてしまう。そんな私の手を振り払うようにして駆け出すマキオ。
その先に置かれていたのは小学生低学年の子供サイズのマネキン。……いや、この場合、特定のキャラクターを象っているのだからフィギュアと呼ぶのが正しいのだろうか。
それは平安絵巻に登場するお姫様のような髪型、目に鮮やかな色彩の装束をまとった子供の――恐らく男の子だろう、多分――等身大フイギュアだった。
怪我でもしているのか左目を黒い眼帯で覆い、上半身を少し前傾させ、力を貯めるように両手を左右に伸ばしている。
その幼い顔だちにはあまり似つかわしくない険しい表情。そして、その小さな背中には猛禽類を思わせる一対の焦げ茶色の翼が大きく広げられている。
「ねえ! 見て、ママ! これ見て!」
丸い顔を上気させ、すっかり興奮した口調でマキオがふり返る。まるでダンスのようにバタバタと両足で床を踏み鳴らしている。
「稚児天狗だよ! 稚児天狗ぅーっ!」
「わ、わかった。わかったから……少し声のトーンを落とそ?」
周囲の目を気にして、「しーっ」と人差し指を立てながらも私は顔がほころんでくるのを禁じ得なかった。
稚児天狗、か……。
その名前の通り、稚児の姿をした天狗だ。
この街、童ノ宮のマスコットキャラクターであり、地域の活性化にも一躍買っているらしい。その外見は子供らしい可愛らしさと若干の不気味さを併せ持っている。いわゆるご当地妖怪みたいなものだと思う。
だけど、この地域に住んでいる人たちにとってはもっと重要な意味を持っていると聞く。街の中心には千年以上も昔に建立された童ノ宮神社があり、稚児天狗はそこで祀られる神霊のこと。
少しマニアックだと思うが、稚児天狗のキャラクターとしての人気も高いらしい。見ればお土産コーナーでは結構な割合のスペースが関連グッズで占められている。稚児天狗をモチーフとしたヌイグルミや缶バッジ、Tシャツ、ステッカーetc……。
また平積みに置かれた書籍は、難しそうな民俗学関連の研究書から煽情的なオカルト本、子供向きの絵本まであり、驚くほどバリュエーションに富んでいた。もちろん、どれも稚児天狗に関連するタイトルで、そのうちの一冊に私は見覚えがあった。と言うか、今も部屋に置いて来た旅行用バッグの中にしまってある。
#童ノ宮奇談シリーズ
#死ネタ、流血表現、暴力表現