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本開催の前夜、守森神社には派手な照明ではなく、小さな灯りだけが置かれた。石段の両脇に並ぶ行灯は、夏祭りの時より数が少ない。そのぶん、山から下りる風の音や、遠くで鳴る水の音がよく聞こえた。
大きな呼び込みも、余計な演出もない。町の人と準備に関わった者たちが集まり、明日無事に始められるよう、静かに息をそろえる夜だった。
神社の境内には、ハルミネが直した半被を羽織る者、搬入を終えた台車の脇で水を飲む者、最後まで配布順を確認している者がいる。皆、疲れているのに、顔だけは不思議と明るかった。
拝殿の前に、小さな花台が用意されている。そこへ最初の一輪を供える役は、自然にハヤへ回ってきた。
「私でいいんですか」
「よくない理由がない」
澄江が言う。
ハヤは白い花を一本選んだ。派手な花ではない。けれど、夜の灯りの下で静かに浮くものがよかった。母の花ばさみを握る手は、以前より少しだけ迷わない。
ぱちん、と夜へ溶けるような音がして、花が切れた。
境内にいた何人かが、その音でこちらを見る。大げさな拍手は起きない。ただ、見守る気配だけが集まる。
ハヤは花を花台へ置いた。白い花弁が、行灯の明かりを薄く返す。
ジョンナが小さく頭を下げ、ドゥシャンはなぜか自分まで緊張した顔で背筋を伸ばした。エフチキアは両手を胸の前で握り、アンネロスは「明日は泣く暇ないわよ」と自分に言い聞かせるようにつぶやく。
ノイシュタットは、少し離れた石段の下にいた。目が合うと、いつもの軽口を出しかけて、やめる。その代わり、ほんの少しだけ顎を引いた。大丈夫だ、と言う代わりの動きだった。
拝殿の前で、宮司が短く言葉を上げる。山の無事、人の往来、明日の安全。昔から同じ言葉が繰り返されてきたのだろう。けれど今夜は、その一つ一つがやけに近く聞こえた。
前夜祭が終わり、灯りを落とす前、十人は石段の途中に自然と集まっていた。誰かが「明日も早い」と言い、誰かが「寝られる気がしない」と返す。笑いは小さい。けれど、無理に大きくしなくても、ここまで来たことがもう十分おかしかった。
「とうとう、ですね」
ハヤが言う。
「とうとうだ」
オブラスが答える。
「ようやくでもある」
ジョンナが続ける。
「やっと派手に転べる日でもある」
ノイシュタットが言って、皆に睨まれた。
「転ばないでください」
ハヤが返すと、境内に笑いがひと筋通った。
山風が石段を上ってくる。夏に鍵を拾った夜と同じ道なのに、今は手ぶらではない。花ばさみも、名札も、設計図も、数字も、ロープも、皆の声も、それぞれの手の中へ収まっている。
明日、朝風通り全体を使った最後の嘘の実話祭りが始まる。
その前の夜は、驚くほど静かだった。
静かなまま、十人はそれぞれの持ち場へ戻っていく。息を整え、明日へ渡すために。
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