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本開催の朝、朝風通りにはまだ薄い霧が残っていた。店先の看板も、石畳の端も、山から下りてきた白さに少しだけ輪郭をやわらげられている。
けれど、眠そうな町ではなかった。
花屋「花は散らない」の前には、開店前から人が集まりはじめていた。受付台に積まれた甘い名札、回遊地図の束、釣り銭袋、予約票、雨具の予備。エフチキアが「こっちは参加者用、こっちは店の人用」と声を出しながら並べ替え、エルドウィンは台車の車輪を最後に一度だけ持ち上げて確かめる。
ハヤは店内の奥で、受付に置く花を整えていた。明るすぎず、地味すぎない色。祭りの始まりにふさわしい花を選んだつもりでも、手を止めるたびに胸の奥がそわつく。
「隠れる場所なら、今日はないですよ」
ジョンナが資料の束を胸に抱えたまま言った。
「探してません」
「探している顔です」
図星だった。
今日だけは裏方に徹するつもりだったのに、店の前に立つ人員表には、受付担当としてしっかりハヤの名が入っている。しかも一番上にだ。
「改ざんしたの誰ですか」
「改ざんではなく配置です」
オブラスが即答する。
「最初にあなたがいるのが、いちばん数字が動く」
「数字で追い詰めるのやめてください」
「今日は慰める暇がありません」
そこへノイシュタットが、紙箱を抱えて入ってきた。服装はいつもより整っているのに、靴の先には朝の泥が少しついている。もう外を走ってきたのだろう。
「諸君、朗報だ。神社側の導線看板は完璧だ。悲しいほど完璧だ」
「悲しいんですか」
「僕の出番が減るからね」
そう言ってから、彼はハヤの手元を見た。
花の高さがほんの少しそろいきっていないのに気づき、何も言わずに花台の脚へ折った紙を一枚噛ませる。ぐらつきが止まった。
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして。受付係殿」
その呼び方に、ハヤは思わず顔をしかめた。だが嫌ではない。嫌ではないのが困る。
九時ちょうど。朝風通りの入口で、最初の来場者が甘い名札を受け取った。焼き菓子のほのかな匂いが風に乗る。名前を書き込んだ紙を胸につけるだけで、人は少しだけ笑いやすくなるらしい。
「おはようございます。受付はこちらです」
ハヤはそう言って、最初の一人へ名札を渡した。声が思ったより普通に出た。次の一人、その次の一人。相手に名を尋ね、自分も名を名乗る。その繰り返しが始まる。
「ハヤさん、こっち三名です」
「ハヤさん、地図追加ください」
「ハヤさん、花の説明札、すごくいいですね」
名前が、何度も飛んでくる。
逃げたくなる暇もなく、そのたびに胸のどこかがほどけていく。
夏に鍵を拾った夜、石段の上で拾ったのはただの真鍮の鍵だと思っていた。けれど本当に開いたのは、扉だけではなかったのかもしれない。
朝風通りの奥で、最初の語りが始まる拍子木が鳴った。
嘘の実話祭り、最後の開催が動き出す。