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放課後の教室は、掃除の音が消えると急に広く感じる。
相談室のドアも、今日は静かだった。
「……入っていい?」
「どうぞ」
蓮司は椅子に浅く腰かけ、ペンを指で転がしている。
入ってきた相談者は、座る前に一度だけ立ち止まった。
「なんて言えばいいか、分かんないんだけど」
「分かんないままでいい」
それを聞いて、少しだけ息が抜けたようだった。
「さっきまで、別に普通だったんだよ。
笑ってたし、ちゃんと話もしてたし。
でも今、胸の奥に変なのが残ってて」
「変なの」
「うん。悲しいとも違うし、楽しいでもない。
怒ってもないし、落ち込んでもない。
なのに、残ってる」
言葉を選ぶたび、声が遅れる。
「それ、消そうとしてる?」
「……たぶん」
蓮司はペンを止めた。
「消えないと困る?」
「困るっていうか……気持ち悪い。
説明できないのが嫌で」
「人は説明できないと、不安になるからな」
軽く言う。
でも、目は逸らさない。
「名前がついてない感情って、扱いにくいんだ。
相談もしづらいし、放っておくのも落ち着かない」
相談者はうなずいた。
「誰かに言おうとすると、
“それってつまり何?”って聞かれるだろ。
そこで止まる」
「止まる」
「で、“じゃあいいや”ってなる」
沈黙が落ちる。
外で、誰かが走る音がした。
「なあ」
蓮司が口を開く。
「それ、無理に名前つけなくていい」
「……逃げじゃない?」
「整理と逃げは違う」
蓮司は椅子を少し揺らす。
「名前をつけるのは、扱うためだ。
でも、扱えない時期の感情もある」
「置いとけってこと?」
「置いとけ。
存在してるって認めるだけでいい」
相談者は、少し考えた。
「認めるって、どうやって」
「“今、なんか残ってるな”って思うだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
拍子抜けした顔。
「解決しないじゃん」
「解決しなくていいやつもある」
蓮司は窓の外を一瞬見る。
「名前をつけた瞬間、
本当はもっと複雑だったものが、
一個の箱に押し込まれることもある」
「……それで楽になる人もいる」
「いる。
でも今のお前は、楽になる前に潰れそうだ」
相談者は、苦笑した。
「なんか、見られてる気がする」
「気のせい」
そう言って、すぐ続ける。
「ただ、今は“説明しなくていい感情”を
持ってるだけだ」
「それ、持ってていい?」
「いい」
即答だった。
「感情は、意味がなくても湧く。
理由がなくても残る。
それで不良品扱いするのは、さすがに酷だ」
相談者は、深く息を吐いた。
「……じゃあ、これが何か分かる日が来る?」
「来るかもしれない。来ないかもしれない」
「適当だな」
「正直なだけ」
蓮司は立ち上がり、ドアの方を見る。
「でも、分かる日が来なくても、
今のお前が間違ってることにはならない」
少し間があって、相談者は立ち上がった。
「……ここ来ると、
無理にまとめなくていい気がする」
「まとめる場所じゃないからな」
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
蓮司は、ペンをまた回しながら呟いた。
「名前がなくても、
感情はちゃんと生きてる」
夕方の光が、床に長く伸びていた。