山奥の霧深い谷間、古代墓所「蝶の墳」は、昼間でも薄暗く、遠くから見ればまるで時が止まったかのような場所だった。朽ちかけた石の塔が幾重にも並び、苔むした石段は踏みしめるたびにかすかな軋みを響かせる。谷間を吹き抜ける風は冷たく、湿った空気が肌にまとわりついた。旅人の少女、綺羅(きら)は石段の前に立ち、深く息を吸い込んだ。
「……ここが蝶の墳」
小声で呟く。古い伝承によれば、この墓所には遠い昔の女神の記憶が眠り、霊力を帯びた蝶の姿をした怪異が現れるという。祭りの時でも、村人は決してこの谷に近づこうとはしなかった。だが、綺羅は恐怖よりも好奇心が先に立った。理をもって真実を解くこと――それが、彼女の旅の使命だからだ。
薄い霧の中を歩きながら、彼女の視線は慎重に周囲を探る。草の間から覗く石碑には、古代の文様が刻まれ、光の角度によって蝶の模様が微かに揺れて見えた。その揺れに、少女は直感的に心を揺さぶられるものを感じた。これは単なる装飾ではない――生きているかのように動く光の魔力だ。
「……ここで何が待っているのか」
霧が濃くなるにつれ、空間が微妙に歪む感覚があった。石の影から、淡い光をまとった人影がゆらりと現れる。少女の胸は高鳴った。その姿は湖や水影の里で見た皓(こう)によく似ていた。白衣を纏い、長い黒髪が月光を受けて淡く輝く。
「……皓?」
彼の瞳は灰銀色で、光の反射によって冷たくも、優しくも見えた。静止しているのに、全身から風が流れるように感じられる。人ではなく、神のような存在。綺羅は息を呑む。
「歓迎しよう、綺羅」
皓の声は低く、風に混ざって耳に届いた。
「ここには君が探すものが眠っている。だが、簡単には得られまい」
少女は唇を結び、短剣を握る手に力を込めた。
「私は、ここで何が起ころうと、自分の力で解く」
皓は微かに笑み、石碑の前に手をかざすと、蝶の形をした光の集合体が空間に浮かび上がった。光の蝶は静かに羽ばたき、音もなく囁くように声を発する。彼女は理解した。女神の記憶がこの蝶に宿り、訪れる者の心を試すのだ。
「女神の記憶……か」
綺羅は心を落ち着け、霧の中で羽ばたく蝶を見つめた。光の一枚一枚が村人や女神自身の悲しみ、願い、迷いを映している。その光を読み解けば、事件の真相が見えてくるはずだ。
その時、蝶が集まり、空間に人型の影を形作った。人間の姿をしているが、光は冷たく、知性を宿した目で綺羅を見つめる。
「君が解くべきは、記憶の迷宮だ」
影の神は静かに言った。綺羅は短剣を握りながら、言葉を選ぶように答える。
「迷宮は、女神の悲しみと人々の願いが絡み合ったものです。蝶の動きは、心の迷いを映しています」
影の神は微笑み、姿を少しずつ変える。
「正しい。しかし、この迷宮を抜ける鍵は、心だけでは足りない」
綺羅は息を整え、指先で蝶の光をなぞる。頭の中で時間の順序、感情の流れ、光の動きを整理する。ひとつひとつの光に触れ、過去の出来事を並べるように組み立てていく。
「……理で組み立てる。感情を解きほぐし、順序を整える」
時間がゆっくりと流れる中、光の蝶たちは一枚ずつ消え、やがて女神の姿が現れた。銀色の髪と羽を持つ女神は、静かに微笑み、優しく頷く。
「よくぞ来た、旅人よ。あなたの力を認めよう」
その瞬間、皓が霧の中から現れ、柔らかな光を纏いながら少女を見つめる。
「素晴らしい。理性だけで女神の記憶を読み解くとは」
綺羅の胸はわずかに高鳴った。彼の目には尊敬と微かな恋心を映すような光が宿っている。だが、少女は気づかぬふりをし、理性で心を押さえた。神である彼と人である自分――その距離は、まだ超えることはできない。
夜が明け、霧が薄れると、墓所は静寂を取り戻した。綺羅は短剣を腰に戻し、深呼吸した。
「……私の旅は、まだ始まったばかり」
胸の奥には、皓への複雑な思いと、未知の神秘に立ち向かう決意が芽生えていた。
蝶の墳を後にする足取りは、これまでの旅よりも少し軽く、しかし確かな覚悟に満ちていた。
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