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相談室のドアが、今日は少しだけ遅れてから開いた。
ノックもなかった。
入ってきた相談者は、立ったまましばらく動かなかった。椅子は目の前にあるのに、座っていいのか迷っている様子だった。遥は何も言わず、ただ視線を落としたまま待った。
やがて、相談者は小さく息を吸って、腰を下ろした。
「……いじめってさ」
言いかけて、口が止まる。
遥は顔を上げない。言葉を急かさない。沈黙が先に座る。
「もう終わったはずなんだ。クラス替えもあったし、あいつらとは関わってない。殴られることも、物隠されることも、今はない」
遥は、短くうなずいただけだった。
「でも……終わってない感じがする」
相談者の手が、膝の上で強く握られた。
「教室に入ると、いまだに背中がこわばる。誰かが笑ってるだけで、自分のことだって思う。名前を呼ばれてないのに、呼ばれた気がする」
言葉が一つずつ、慎重に置かれていく。
「もう“被害”は起きてないのに……俺だけが、あの時間に取り残されてるみたいで」
その言い方を聞いて、遥は初めて口を開いた。
「終わったって言葉、誰が決めたんだ?」
相談者は一瞬、答えられなかった。
「……周り、かな」
「加害者本人? 先生? それとも、時間?」
「全部……かも」
遥は視線を机に落としたまま続けた。
「よくある。何も起きてないなら“もう大丈夫”って扱われる。平気じゃないって言うと、しつこいって思われる」
相談者の肩が、わずかに揺れた。
「忘れろとか、気にするなとか……言われた。でも、無理だった」
「忘れる必要、ない」
それは断定ではなかったが、迷いのない声だった。
「いじめって、やられてる最中より、終わったあとがきついこともある。周りは前に進んでるのに、自分だけ立ち止まってるみたいで」
相談者は、遥を見た。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ。ずっとこのまま?」
遥は答えを急がなかった。
「“終わったこと”にしようとしなくていい。まだ傷が残ってるなら、それは過去じゃなくて、今の問題だ」
「でも、今さら……」
「今さら、って言葉は便利すぎる」
遥は静かに言った。
「時間が経ったら無効になる痛みなんて、ない。信用が壊れて、安心が壊れて、自分の価値まで壊されたら、それは簡単に戻らない」
相談者は目を伏せた。
「自分が弱いだけかと思ってた」
「弱くなったんだよ」
遥は初めて、はっきりと視線を向けた。
「壊された。そういうこと。元からじゃない」
その言葉に、相談者は息を詰めた。
「……怒っていいのかも、分からない」
「分からなくていい」
怒りの説明はしなかった。ただ、
「怒れないなら、無理に怒らなくていい。泣けないなら、泣かなくていい。ただ、“なかったこと”にだけはしなくていい」
相談者の指先から、力が抜けていく。
「ここに来た時点で、もう十分やってる」
遥はそう言って、少し間を置いた。
「いじめは、終わった瞬間に消えるもんじゃない。後遺症みたいに残る。だから、今つらいのはおかしくない」
相談者は小さく、頷いた。
「……少しだけ、息できた気がする」
遥はそれ以上、何も言わなかった。
解決も、前向きな宣言もなかった。
ただ、ここでは“まだ苦しい”と言っていい。それだけが、静かに空気として残っていた。