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会議室の空気は、重かった。
壁際に並ぶ椅子。
中央の長机。
プロジェクターに映し出されているのは、黒瀬の顔写真だった。
「結論から言おう」
課長が口を開く。
「この件は、黒瀬で行く」
誰も驚かなかった。
久我以外は。
「……行く、とは」
久我は、静かに問い返した。
「送検だ。
証拠は揃っている。
世論も、上も早期解決を望んでいる」
“揃っている”。
その言葉が、久我の耳に引っかかる。
「目撃情報の食い違いは」
「致命的ではない」
「別の人物の可能性は」
「仮説だ」
課長は即座に切り捨てた。
「久我、お前も分かっているだろ。
これ以上引き延ばせば、
組織ごと疑われる」
久我は、資料を見つめた。
黒瀬を犯人とするには、十分だ。
だが、真実に辿り着くには、明らかに足りない。
「……もし、違ったら」
久我の声は低かった。
「無実の人間を、
我々が潰すことになる」
一瞬、沈黙。
だが、それはすぐに破られた。
「その覚悟も含めて、仕事だ」
課長の言葉は、冷静だった。
「正義は、常に最善の形で守れない」
久我は、何も言えなかった。
会議は、形式的に終了した。
決定は、すでに出ている。
廊下に出た瞬間、久我は深く息を吐いた。
肺の奥が、ひどく痛む。
――保身。
個人のためではない。
組織のための、保身。
夕方、久我は取り調べ室に向かった。
黒瀬は、何も聞かされていないはずだ。
「今日は、会議があったんですね」
入室するなり、黒瀬が言った。
「……なぜ分かる」
「あなたの歩き方が、
“決められた後”のそれです」
久我は、椅子に座ったまま、しばらく黙っていた。
「黒瀬」
「はい」
「君は……
このまま行けば、起訴される」
黒瀬の表情は、変わらなかった。
「そうですか」
それだけ。
「怖くないのか」
「怖いですよ」
即答だった。
「ただ、予想通りです」
久我は、拳を握った。
「……真犯人が別にいる可能性がある」
「ええ」
「それでも、
君を犯人にする流れが止まらない」
黒瀬は、ゆっくりと久我を見た。
「それが、“保たれる正義”です」
久我は、思わず声を荒げた。
「それを、受け入れるのか」
「受け入れています」
黒瀬は、静かに言う。
「あなたが壊れないために」
久我は、目を伏せた。
「……私は、捜査官だ」
「知っています」
「組織に逆らえば、 私も終わる」
「ええ」
黒瀬は頷く。
「だから、あなたは迷っている」
久我は、机に手をついた。
「君は……
自分を犠牲にしている自覚はあるのか」
黒瀬は、少し考えたあと答えた。
「犠牲ではありません」
「なら、何だ」
「選択です」
その言葉が、久我の胸に刺さる。
「私がここにいれば、 事件は“解決”する」
黒瀬は淡々と続ける。
「あなたは、 次に進める」
久我は、首を振った。
「それは、逃げだ」
「違います」
黒瀬は、初めて強く否定した。
「逃げるのは、 真実を見たまま、
何もしないことです」
久我は、息を呑んだ。
「私は、あなたに
それをしてほしくない」
黒瀬の声は、低く、はっきりしていた。
「だから、私を使ってください」
久我は、立ち上がった。
「……やめろ」
「あなたが、
自分を守るために
誰かを切るなら」
黒瀬は、久我を見据える。
「その役は、
私が引き受けます」
久我は、何も言えなかった。
ドアを出た瞬間、
胸の奥で何かが崩れた。
正義の名の下に行われる保身。
それを、
“理解してしまった自分”。
そして、
それを受け入れる場所を
用意してしまった男。
久我は、歩きながら思う。
このまま進めば、
自分は守られる。
職も、立場も、未来も。
だがその代わりに、
一つだけ、確実に失う。
――自分が、
どこで間違えたのかを
問う資格を。
取り調べ室の扉が、
遠くで閉まる音がした。
それは、黒瀬の檻の音であり、
同時に、
久我自身が守りに入った音でもあった。