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報告書の白い画面が、久我を睨み返していた。
件名。
被疑者名。
送致意見――起訴相当。
指を伸ばせば、いくらでも書ける。
事実を、都合のいい順に並べることも。
曖昧な部分を、断定に変えることも。
それは、これまで何度も見てきた“仕事”だった。
「……」
久我は、キーボードに触れたまま動けずにいた。
黒瀬を犯人とする報告書は、すでに下書きが用意されている。
上層部が望む形。
世間が納得する筋書き。
足りない部分は、
“久我の判断”で埋めればいい。
――判断。
その言葉が、喉に引っかかる。
久我は、過去のファイルを一つ開いた。
自分が関わった、冤罪事件。
当時の報告書。
自分の名前が、そこにある。
読み返すと、分かる。
どこで、線を引いたのか。
どこで、“疑わない選択”をしたのか。
「……同じだ」
今回は、黒瀬。
あの時は、別の誰か。
違うのは――
今回は、相手が“分かっている”ということだ。
夕方、久我は取り調べ室に向かった。
決断の前に、
どうしても会わなければならなかった。
黒瀬は、すでに座っていた。
「今日は、書類の日ですね」
久我は、何も答えず椅子に座る。
「報告書を書けば、
私は前に進みます」
「……前に進む?」
「檻の奥へ」
黒瀬は、淡々と言った。
「あなたは?」
久我は、視線を上げる。
「私は……」
言葉が続かない。
黒瀬は、久我の沈黙を遮らなかった。
それが、かえって重い。
「書き換えることも、できます」
黒瀬が言う。
「曖昧な部分を、曖昧なまま残す。
真犯人の可能性を、
“未解決事項”として添える」
「……そうすれば」
「あなたは、組織から外れます」
即答だった。
「守られない」
久我は、拳を握った。
「それでも、書く価値があるか」
黒瀬は、久我を見つめる。
「それを、私に聞きますか」
「……」
「選ぶのは、あなたです」
黒瀬の声は、静かだった。
「私を守るために、
あなたが壊れる必要はない」
「なら、なぜ」
久我は、思わず問い返す。
「なぜ、黙っている」
黒瀬は、少しだけ目を伏せた。
「あなたが、
“自分で選ぶ”ためです」
久我は、息を詰めた。
「私は……」
「正しい選択をしたい」
黒瀬が、代わりに言う。
「でも、それは
必ずしも“正しい結果”にはならない」
久我は、苦く笑った。
「君は……残酷だな」
「ええ」
黒瀬は認める。
「でも、嘘はつきません」
沈黙が落ちる。
時計の秒針の音が、やけに大きい。
「もし」
久我は、ゆっくりと口を開いた。
「もし、私が報告書を書き換えたら」
「あなたは、
“疑う側”ではいられなくなる」
「……」
「組織にとって、
不都合な存在になる」
久我は、目を閉じた。
「それでも」
黒瀬は続ける。
「あなたは、
あなたのままでいられる」
久我は、立ち上がった。
「……今日は、終わりだ」
「はい」
黒瀬は、いつも通り頷く。
立ち去る直前、黒瀬が言った。
「久我さん」
「何だ」
「どちらを選んでも」
黒瀬は、静かに続けた。
「あなたは、
私の人生に関わった」
久我は、振り返らなかった。
執務室に戻る。
画面には、報告書。
久我は、深く息を吸い、
キーボードに指を置いた。
書き換えるか。
従うか。
どちらも、
“誰かを裏切る”選択だ。
久我は、最初の一文を消した。
そして、新しい文を打ち始める。
それが、
正義かどうかは分からない。
ただ――
自分が、何を失う覚悟で書いているのかだけは、
はっきりと分かっていた。
画面の白が、
ゆっくりと文字で埋まっていく。
それは、
久我が初めて自分で引いた線だった。
守るための線ではない。
戻れなくなることを、
自分で選ぶための線だ。