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休憩室から戻ると、スタジオは照明だけが落とされ、暗い海のように静かだった。
「立って」
柳瀬の指示に、泉は少し緊張しながら立ち上がる。
柳瀬はカメラも何も持っていなかった。
ただ、泉の前にゆっくりと歩み寄る。
「今日は“距離”の練習をする。
まずは——三十センチ」
スタジオの中央、誰もいない空間で向かい合う。
三十センチという距離は、想像よりも驚くほど近い。
息の温度が分かるほどに。
「……近い」
「これが基本だよ。カメラはもっと寄ることもある」
柳瀬の声は落ち着いているが、
泉の呼吸だけがわずかに乱れた。
柳瀬は泉の視線を逃さないまま、問いかける。
「どこが緊張する?」
「目……です。見られるのが」
「見られたときに崩れるの、絶対やめろ。
でも、その“崩れそうになる直前の表情”は……使える」
言いながら、柳瀬は泉の顎を軽く持ち上げる。
触れているようで触れていない、ぎりぎりの距離。
「じゃあ、二段階目。——十センチ」
泉は息を呑む。
十センチ。
もう“距離”ではなく、存在そのものがぶつかる。
柳瀬の指先が顎に触れなくても、
触れているように錯覚する距離。
「柳瀬さん……これ、本当に必要なんですか」
「必要だよ。……お前の表情を作るために」
声が低くなるたび、泉の胸が熱くなる。
理性は警鐘を鳴らしているのに、身体が従わない。
柳瀬はゆっくり一歩踏み出し——
泉との距離は、ほとんどゼロに近づく。
「最後。耳元」
「……っ」
耳に、柳瀬の呼吸がかかる。
もう、完全に仕事の範囲を越えている。
だが、泉は後ろへ下がれなかった。
逃げようと思えばできる——
それなのに、足は床に縫い付けられたように動かない。
柳瀬の指先が、泉の髪に触れるか触れないかの軌跡を描く。
「逃げるなら……今だよ」
囁きは、挑発ではなく確認。
泉の本音を試すような温度を含んでいた。
泉は唇を震わせ、返事をする。
「……逃げません」
「そう」
柳瀬の呼吸が、かすかに笑った。
「じゃあ……この距離で、声を出せ」
「こ、声……?」
「役者だろ。呼吸でもいい。反応でも。
さっきみたいに……作らなくていいから」
耳元に、低い声が落ちる。
泉の全身がその一点に集中し、
喉が熱くなる。
「……やめ……」
震えた声が漏れた。
柳瀬はすぐに反応する。
息が、泉の首筋すれすれを掠め——
「いい。そういう声」
「……っ、柳瀬さん……」
「仕事だよ。全部」
そう言うのに、優しさではなく、
泉の反応そのものを“観察する”眼差し。
その目が、逃げられない。
「次——耳に触れるよ?」
触れてはいないのに、
泉は触れられたような反応をしてしまう。
その反応に、柳瀬は薄く笑った。
「やっぱり……お前、距離に弱いね」
「っ……ち、近すぎ……」
「プロなら耐えろ。
……けど、その震えは、俺が使う」
柳瀬の声が、泉の首筋を一筋でなぞる。
「……っ、もう……無理です……」
そう言いながら、泉は逃げようとしない。
柳瀬は静かに一歩離れた。
急に空間が広くなる。
「今日はここまで」
息が詰まり、泉は壁に手をついて呼吸を整える。
柳瀬は振り返らず言う。
「いい反応だった。
……逃げないところは、特に」
その言葉に、泉の胸がまた揺れた。
スタジオに残るのは、
二人が作った熱だけだった。