テラーノベル
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撮影が終わったスタジオは、照明が落とされ、
足音さえ吸い込むような静けさに沈んでいた。
泉は控室に戻る前、廊下で足を止めた。
息の奥に、まださっきの熱が残っている。
耳元に落ちた低い声。
触れていないのに触れられた感覚が、体にこびりついている。
——落ち着け。仕事だ。
そう言い聞かせて歩き出した瞬間、
背後から柳瀬の声が落ちた。
「泉。今日の分、最後に確認したい」
振り返ると、柳瀬はもう距離を詰めていた。
スーツの襟元に残る微かな香りが、泉の呼吸に入り込む。
「ま……まだあるんですか?」
「反応のチェック。ほんの少しだ」
ほんの少し。
それがどれほど危うい意味を持つのか、泉はもう分かっていた。
柳瀬は当然のように泉の手首へ伸ばす。
触れる寸前——泉は咄嗟に後ろへ下がった。
「……っ、今日は……やめましょう」
柳瀬の指先が空を切る。
一瞬の静寂。
驚いたように柳瀬が目を細め、
ゆっくり手を下ろした。
「……拒否、か」
その声は怒りでも失望でもなく、
むしろ興味深そうだった。
泉は喉が詰まり、言葉を探す。
「ちょっと……無理です。
今日は、もう……これ以上は……」
言いながら、自分でも震えているのが分かった。
柳瀬は数秒、泉を観察するように見つめた後、
ふっと笑った。
「分かった。やめよう」
驚くほどあっさり引いた。
その柔らかさとは裏腹に、
泉の背筋をぞくりと撫でるような静かな圧が残った。
「無理な日は、言え。
……その声で」
「え……?」
「さっきの“やめましょう”って声。
あれ、いいね。
追いつめられた時の、お前の素の響きだ」
泉の頬に血が上る。
柳瀬は一歩近づくでもなく、
逆に距離を保ったまま続けた。
「逃げるのは構わない。
でも……」
廊下の薄暗い照明の下、
柳瀬の瞳だけが鮮明に光った。
「また、その声が聞きたくなる」
ゆっくりと歩き出す背中。
泉は追いかけることもできず、立ち尽くした。
“また聞きたくなる”——
あれが、何よりずるい。
拒否したのに、
自分は今、胸の奥が熱くなっている。
足元がぐらりと揺れる感覚。
柳瀬の指が触れていないのに、
体が、勝手に呼び覚まされる。
——こんなの、おかしい。
なのに、“拒否したはずの自分”が、
その言葉一つでまた揺らぐ。
泉は壁に寄りかかり、
深く息を吸った。
「……なんで……」
拒否したのに、安堵と同じくらい、
物足りなさが胸を刺していた。
それは柳瀬の思惑なのか、ただの言葉なのか。
どちらにせよ、泉の中には、
今日初めて自覚した感情があった。
——拒否でも、反応にされてしまう。
スタジオの灯りが遠くで消えたころ、
泉はようやく歩き出した。
柳瀬の残した声が、耳の奥で響き続ける。
「またその声が聞きたくなる」
その言葉が、泉を無防備にしていく。
拒否すら、彼の手のひらのどこかにあるように。
夜のスタジオの影は深く、
まだ終わらせてくれそうにない。