体育館裏の手洗い場。蛇口から勢いよく水が流れ、白い飛沫がコンクリートに弾けている。
腕を掴まれ、後ろから押し倒されるようにして蛇口の前に押し付けられた遥は、反射的に手をついた。
冷たい金属が手のひらに食い込む。
「じゃ、口、閉じるなよ?」
笑い混じりの声と同時に、水流が顔面に直撃する。
鼻の奥に鋭い冷たさが突き刺さり、喉の奥まで一気に流れ込む。
息を吸おうとした瞬間、後頭部に回された手がぐっと押し込む。
水音と心臓の鼓動が、耳の奥で混じり合って響く。
吐き出したいのに、吐き出せない。
肺が悲鳴を上げ始めたとき、首筋に別の手が滑り込み、喉を上下から挟み込む。
爪の感触と、じわじわ増す圧力。
吸う空気はもう水と同じで、どこからも逃げられない。
「なあ、ほら見ろよ。目、ひっくり返ってるぞ」
「やべ、魚みたい」
声が遠くで笑っている。視界の端に白い光がちらつき始め、遥の膝が勝手に折れそうになる。
その瞬間、押さえつける力がふっと消え、水流も止まった。
だが、解放感は訪れない。喉は痛みで膨れ上がったように感じられ、呼吸は浅く震える。
濡れた制服が背中に貼り付き、寒さと羞恥が同時に押し寄せてくる。
「ほら、顔びっしょびしょ。授業戻ったらウケるな」
そう言って笑いながら、スマホのシャッター音が響いた。
その音が、遥にとっては二度目の“締め付け”だった。
教室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
全員の視線が、一拍遅れて遥の濡れた制服と髪に集まる。
誰かが小さく吹き出し、その音が合図のように笑いが広がった。
「おい見ろよ、まだ雫垂れてんぞ」
「うわ、近く来んなって。水臭いし、なんか生臭ぇ」
机の間を通るたびに、足が引かれ、肩が押される。
通路は空いているのに、ぶつかられる。わざとだとわかっていても、体は避けきれない。
前の席の女子が、ひそひそ声で言った。
「ほんと無理。あの目……水死体みたい」
隣の男子が笑いながら、机の下で足を突き出し、遥の膝を小突く。
バランスを崩した拍子に、椅子が大きな音を立てて倒れ、
また笑い声が起きた。
「やっぱ、あれだよな。あいつ、わざとやってんじゃね?」
「構ってほしいんだろ。気持ちわりぃ」
「マジで見てるだけで気分悪くなる」
背中から刺さる言葉は、もう避けられない。
どこを向いても、口元が歪んでいる。
さっき体育館裏で押し込まれた水の冷たさより、
今はこの笑いと吐き捨てられる音のほうが、
肺の奥を締め付けてくる。
机の中に入れていた教科書が、
誰かの手で半分引き抜かれ、床に落ちた。
濡れた制服の袖で拾い上げると、
その湿り気が紙に移って歪む。
その様子を見て、後ろの方からまたスマホのシャッター音。
「明日のネタ、もうできたな」
「“沈んだ幽霊”ってタイトルで送っとこ」
笑いは止まらず、授業が始まってもその余韻は残り続けた。
遥はノートを開くふりをしながら、
黒板に映る文字よりも、背後から降ってくる小さな笑い声だけを数えていた。