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さぶた@気分屋
101
小学校五年生。
朝。
蒼真は鏡の前で髪を整えていた。
肩にかかるくらいまで伸びた髪。
寝癖を直して、前髪を指で分ける。
「蒼真、早くしなさい」
母親の声がする。
「分かってる」
鏡から目を離す。
いつもの朝だった。
階段を下りると、紬が先に朝食を食べていた。
「遅い」
「お前が早いだけ」
「今日、体育あるよ」
「知ってる」
「忘れてそう」
「忘れてないって」
紬が笑う。
蒼真も笑う。
家の中では、何も変わらない。
だから学校へ行くまでは、今日も昨日と同じだと思っていた。
教室に入る。
席へ向かう途中、後ろから髪を引っ張られた。
「おはよ、蒼真」
「……やめろよ」
振り返る。
男子が笑っている。
「何だよ、朝から」
「長いから邪魔だっただけ」
「離せって」
手を払う。
男子は面白そうに笑った。
「また怒った」
「怒ってない」
「じゃあいいじゃん」
別の男子が横から口を挟む。
「ほんと女みたいだよな」
蒼真は何も言わなかった。
少し前なら、適当に笑って流していた。
でも最近は、それだけでは終わらなくなっていた。
触られる。
笑われる。
見られる。
何か言われる。
その一つ一つが、少しずつ嫌になっていた。
休み時間。
紬が戻ってくる。
「蒼真」
「ん?」
「今日、一緒に帰る?」
「いいよ」
「じゃあ待ってる」
「分かった」
紬は何も知らない。
さっきのことも。
昨日のことも。
その前の日のことも。
蒼真は、それでいいと思っていた。
知らなくていい。
紬まで巻き込みたくない。
何より。
紬が自分を見る目を変えるのが嫌だった。
昼休み。
机の中に紙が入っていた。
蒼真は周りを確認してから取り出す。
開く。
短い言葉。
見慣れた悪意。
またか、と思った。
怒るより先に、疲れた。
紙を折る。
鞄に入れる。
そのとき、悠生が近づいてきた。
「何してる?」
「何も」
「今、何か入れた?」
「プリント」
「見せて」
「嫌だよ」
蒼真は笑った。
悠生は笑わなかった。
「……そっか」
それだけ言って離れていく。
蒼真はその背中を見る。
気づかれた。
そう思った。
でも、悠生なら言わない。
昔からそうだった。
放課後。
紬と帰る。
算数の宿題の話。
体育の話。
給食の話。
どうでもいい話ばかり。
それが嬉しかった。
学校で何があっても。
家に帰る途中だけは、普通の兄弟でいられる。
「蒼真」
「ん?」
「今日、何かあった?」
一瞬、心臓が跳ねた。
「何も」
「そっか」
「なんで?」
「なんとなく」
蒼真は笑った。
「変なの」
紬も笑う。
その笑顔を見て、蒼真は思った。
やっぱり、言わなくてよかった。
家に帰ってから。
自分の部屋に入る。
鞄を置く。
昼間の紙を取り出す。
机の引き出しにしまう。
もう何枚目か分からない。
捨てればいい。
そう思う。
でも、捨てたところで何も変わらない。
また入れられる。
また見つける。
また知らないふりをする。
蒼真は引き出しを閉めた。
翌日。
また髪を触られた。
「まだ伸ばしてんの?」
「……うん」
「何で?」
「好きだから」
初めて、そう答えた。
男子は少し黙って、それから笑った。
「へえ」
その笑い方が嫌だった。
数日後。
放課後。
紬は先に帰った。
蒼真は教室に残った。
忘れ物を取りに戻っただけだった。
その帰り。
呼び止められた。
「蒼真」
振り返る。
そこから先のことを、蒼真は誰にも話さなかった。
何があったのか。
誰がいたのか。
どこまでだったのか。
言葉にしようとすると、頭の中が止まった。
ただ。
その日を境に、蒼真は人に近づかれることが怖くなった。
廊下で誰かが後ろを歩くだけで、身体が固まる。
名前を呼ばれるだけで、身構える。
笑い声が聞こえると、自分のことのように感じる。
何もされていない時間まで、怖くなった。
翌朝。
鏡を見る。
長い髪。
蒼真はそこに映る自分を見つめた。
昔は好きだった。
女の子みたいだと言われることも、気にしていなかった。
むしろ、可愛いと言われれば嬉しかった。
紬が「蒼真みたいになりたい」と言っていたことも覚えている。
でも今は。
その頃の自分を見るだけで、嫌な記憶が蘇る。
蒼真は髪を握った。
「……もういい」
小さく呟く。
この髪を切れば。
昔の自分から離れられる気がした。
その日の放課後。
悠生が蒼真を見つけた。
「蒼真」
「何」
「今日、一緒に帰ろう」
「……ごめん」
「何で?」
蒼真は少し迷った。
「一人で帰りたい」
悠生は黙った。
「分かった」
蒼真が歩き出す。
背中に悠生の視線を感じる。
でも、振り返らなかった。
家に帰る。
鏡を見る。
髪に触れる。
もう一度だけ。
昔の自分を思い出す。
笑っている自分。
紬と並んでいる自分。
悠生と三人で走っている自分。
その全部を、遠くへ置いていくような気持ちで。
蒼真は決めた。
髪を切ろう。
それで何かが変わるとは、もう思っていなかった。
ただ。
少なくとも、鏡の中にいる自分だけは変えたかった。
コメント
1件
うわ、まじか…これが蒼真の過去か。 小学生の頃からじわじわと積み重なってたんだな、嫌なこと。髪引っ張られたり、紙入れたり、笑い声の一つ一つが刺さるっていう感覚、すごく伝わってきた。特に紬に「何かあった?」って聞かれて「何も」って笑うシーン、心臓ギュッてなった。言いたくても言えない、巻き込みたくないって、蒼真なりに守ってたんだな。最後の「鏡の中の自分だけは変えたかった」ってセリフ、刺さりすぎてもう…切ないけど、この決意が今の蒼真を作ったんだなって思うと、もっと応援したくなる。ruruhaさん、めっちゃ丁寧に描いてくれましたね、ありがとうございます。