テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#mlmk
I am 壁 @自給自足
62,199
#だてなべ
ゆー
4
小学校五年生。
朝。
蒼真は鏡の前で髪を整えていた。
肩にかかるくらいまで伸びた髪。
寝癖を直して、前髪を指で分ける。
「蒼真、早くしなさい」
母親の声がする。
「分かってる」
鏡から目を離す。
いつもの朝だった。
階段を下りると、紬が先に朝食を食べていた。
「遅い」
「お前が早いだけ」
「今日、体育あるよ」
「知ってる」
「忘れてそう」
「忘れてないって」
紬が笑う。
蒼真も笑う。
家の中では、何も変わらない。
だから学校へ行くまでは、今日も昨日と同じだと思っていた。
教室に入る。
席へ向かう途中、後ろから髪を引っ張られた。
「おはよ、蒼真」
「……やめろよ」
振り返る。
男子が笑っている。
「何だよ、朝から」
「長いから邪魔だっただけ」
「離せって」
手を払う。
男子は面白そうに笑った。
「また怒った」
「怒ってない」
「じゃあいいじゃん」
別の男子が横から口を挟む。
「ほんと女みたいだよな」
蒼真は何も言わなかった。
少し前なら、適当に笑って流していた。
でも最近は、それだけでは終わらなくなっていた。
触られる。
笑われる。
見られる。
何か言われる。
その一つ一つが、少しずつ嫌になっていた。
休み時間。
紬が戻ってくる。
「蒼真」
「ん?」
「今日、一緒に帰る?」
「いいよ」
「じゃあ待ってる」
「分かった」
紬は何も知らない。
さっきのことも。
昨日のことも。
その前の日のことも。
蒼真は、それでいいと思っていた。
知らなくていい。
紬まで巻き込みたくない。
何より。
紬が自分を見る目を変えるのが嫌だった。
昼休み。
机の中に紙が入っていた。
蒼真は周りを確認してから取り出す。
開く。
短い言葉。
見慣れた悪意。
またか、と思った。
怒るより先に、疲れた。
紙を折る。
鞄に入れる。
そのとき、悠生が近づいてきた。
「何してる?」
「何も」
「今、何か入れた?」
「プリント」
「見せて」
「嫌だよ」
蒼真は笑った。
悠生は笑わなかった。
「……そっか」
それだけ言って離れていく。
蒼真はその背中を見る。
気づかれた。
そう思った。
でも、悠生なら言わない。
昔からそうだった。
放課後。
紬と帰る。
算数の宿題の話。
体育の話。
給食の話。
どうでもいい話ばかり。
それが嬉しかった。
学校で何があっても。
家に帰る途中だけは、普通の兄弟でいられる。
「蒼真」
「ん?」
「今日、何かあった?」
一瞬、心臓が跳ねた。
「何も」
「そっか」
「なんで?」
「なんとなく」
蒼真は笑った。
「変なの」
紬も笑う。
その笑顔を見て、蒼真は思った。
やっぱり、言わなくてよかった。
家に帰ってから。
自分の部屋に入る。
鞄を置く。
昼間の紙を取り出す。
机の引き出しにしまう。
もう何枚目か分からない。
捨てればいい。
そう思う。
でも、捨てたところで何も変わらない。
また入れられる。
また見つける。
また知らないふりをする。
蒼真は引き出しを閉めた。
翌日。
また髪を触られた。
「まだ伸ばしてんの?」
「……うん」
「何で?」
「好きだから」
初めて、そう答えた。
男子は少し黙って、それから笑った。
「へえ」
その笑い方が嫌だった。
数日後。
放課後。
紬は先に帰った。
蒼真は教室に残った。
忘れ物を取りに戻っただけだった。
その帰り。
呼び止められた。
「蒼真」
振り返る。
そこから先のことを、蒼真は誰にも話さなかった。
何があったのか。
誰がいたのか。
どこまでだったのか。
言葉にしようとすると、頭の中が止まった。
ただ。
その日を境に、蒼真は人に近づかれることが怖くなった。
廊下で誰かが後ろを歩くだけで、身体が固まる。
名前を呼ばれるだけで、身構える。
笑い声が聞こえると、自分のことのように感じる。
何もされていない時間まで、怖くなった。
翌朝。
鏡を見る。
長い髪。
蒼真はそこに映る自分を見つめた。
昔は好きだった。
女の子みたいだと言われることも、気にしていなかった。
むしろ、可愛いと言われれば嬉しかった。
紬が「蒼真みたいになりたい」と言っていたことも覚えている。
でも今は。
その頃の自分を見るだけで、嫌な記憶が蘇る。
蒼真は髪を握った。
「……もういい」
小さく呟く。
この髪を切れば。
昔の自分から離れられる気がした。
その日の放課後。
悠生が蒼真を見つけた。
「蒼真」
「何」
「今日、一緒に帰ろう」
「……ごめん」
「何で?」
蒼真は少し迷った。
「一人で帰りたい」
悠生は黙った。
「分かった」
蒼真が歩き出す。
背中に悠生の視線を感じる。
でも、振り返らなかった。
家に帰る。
鏡を見る。
髪に触れる。
もう一度だけ。
昔の自分を思い出す。
笑っている自分。
紬と並んでいる自分。
悠生と三人で走っている自分。
その全部を、遠くへ置いていくような気持ちで。
蒼真は決めた。
髪を切ろう。
それで何かが変わるとは、もう思っていなかった。
ただ。
少なくとも、鏡の中にいる自分だけは変えたかった。
コメント
1件
うわ、まじか…これが蒼真の過去か。 小学生の頃からじわじわと積み重なってたんだな、嫌なこと。髪引っ張られたり、紙入れたり、笑い声の一つ一つが刺さるっていう感覚、すごく伝わってきた。特に紬に「何かあった?」って聞かれて「何も」って笑うシーン、心臓ギュッてなった。言いたくても言えない、巻き込みたくないって、蒼真なりに守ってたんだな。最後の「鏡の中の自分だけは変えたかった」ってセリフ、刺さりすぎてもう…切ないけど、この決意が今の蒼真を作ったんだなって思うと、もっと応援したくなる。ruruhaさん、めっちゃ丁寧に描いてくれましたね、ありがとうございます。