風が冷たい。遥はフェンスにもたれながら、くすんだ空を仰いでいた。
何も見えない。音もしない。ただ、頭の奥で自分の声だけが響いている。
「……知ってたんだろ?」
不意に背後から声がした。日下部だった。
遥は振り返らない。けれど、その身体のどこかが震えた。
「……全部、じゃない。けど、なんとなく……感じてた」
日下部の声は乾いていた。怒ってもいない、責めてもいない。ただ、冷えていた。
遥は少し笑ったような声を漏らした。
「じゃあ、どうして……なにも言わなかった?」
「言ったら、おまえ……俺から逃げただろ」
その瞬間、遥の肩がわずかに揺れた。
「逃げたのは、俺のほうかもな」
「……蓮司と寝てまで、何が欲しかった?」
遥は目を閉じた。答えは言葉にならなかった。
あれは、ただ試しただけだった。
本当に自分を必要とするやつなんかいない。そう思い込むために、自分を誰かに使わせた。
それが、蓮司だっただけだ。
何も感じなかったわけじゃない。痛みもあった。怖さもあった。でも、それを「罰」として受け入れた。
それで、少しでも楽になれる気がした――いや、日下部が自分を見捨ててくれた方が、よほど楽だった。
「なぁ……なんで、抱かなかった?」
遥がぽつりと呟いた。
「何度も、誘ったろ。なにか、してほしそうにしたろ。わざと試したのに。おまえ……ずっと我慢してた」
日下部は黙っていた。遥の横顔を、強い風がなでていく。
「おまえが優しいの、知ってた。でも……優しさだけじゃ、俺、救えなかった」
日下部は遥の前に立ち、じっと見つめた。
「違う。優しさでごまかしてたのは俺だ」
「……?」
「おまえに触れたら、壊れる気がしてた。欲しかったけど、それが怖かった」
遥の瞳が揺れた。
「でも……壊れてたの、もう前からだよ」
その声に、日下部は拳を握った。
「知ってた。なのに、見て見ぬふりしてた。おまえのこと、守るって言って、何もできてなかった」
沈黙。
そして、遥がぽつりと呟いた。
「……終わりにする?」
日下部は首を横に振った。
「終わりにしない。俺が見捨てたら、おまえ、自分をもっと壊すだろ」
遥の瞳に、ようやく――滲むような感情が浮かんだ。けれど、それが何なのか、わからなかった。
「……じゃあ、どうすればいい?」
「もう試さなくていい。俺は、おまえを――」
そこで、日下部は言葉を切った。
「……いまはまだ、言えない。でも、離れねぇ」
遥は、唇を噛んだ。
耐えるように、黙るように、そこに立ち尽くした。