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放課後の教室は、もう半分以上が空になっていた。
黒板に残ったチョークの粉と、机の並びだけが昼間の名残を留めている。
扉が、控えめに開いた。
相談者は一度、廊下の様子をうかがってから中に入ってきた。制服の袖を無意識に引き下げ、視線は床と壁の境目をなぞっている。
「……入っていい、ですか」
遥は顔を上げ、短く頷いた。
急かす言葉は出さない。椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
しばらく、沈黙が続いた。
相談者は何度か口を開きかけて、閉じる。その繰り返しだった。
「今日、何もなかったんです」
ようやく出た声は、妙に平坦だった。
遥は反応を返さず、ただ聞いている。
「悪口も、無視も、物を隠されることもなくて。授業も普通に終わって、休み時間も……何も」
相談者は、そこで言葉を切った。
それから、小さく息を吸う。
「それなのに、ずっと肩に力が入ってて。帰り道も、気が抜けなくて」
遥の視線が、相談者の手元に落ちた。膝の上で、指先が絡まり合っている。
「何もされてない日って、安心できるはずですよね」
その問いは、誰に向けられたものなのか分からなかった。
「でも、こういう日ほど……怖いんです」
相談者は、自分の言葉を確かめるように続けた。
「次はいつ来るんだろう、とか。今日はただ、嵐の前なだけなんじゃないか、とか。
何も起きてないのに、ずっと身構えてて……」
声が少し、震えた。
「気を抜いたら、やられる気がして」
遥は、ゆっくりと息を吐いた。
軽い相づちも、慰めも挟まない。ただ、言葉が落ちてくるのを待つ。
「周りから見たら、普通の日なんです。たぶん。
だから余計に……自分がおかしいみたいで」
相談者は笑おうとしたが、うまく形にならなかった。
「“今日は平和だったじゃん”って言われたら、それで終わりじゃないですか。
怖かったって言っても、何が?って」
遥は、少し間を置いてから口を開いた。
「何もなかった、っていうのはさ」
声は低く、落ち着いていた。
「終わったって意味じゃない場合もある」
相談者が、はっと顔を上げる。
「何もなかった日は、“何も起きなかった”だけで、“安全だった”とは限らない」
遥は、言葉を選ぶように続けた。
「ずっと続いてたことがあるなら、急に静かになったとき、体が先に警戒するのは自然だと思う」
相談者の表情が、少しだけ緩んだ。
「それって……弱いからじゃない、ですか」
遥は首を振らなかったし、肯定もしなかった。
「身についた反応は、簡単には消えない。
危ない目に遭った経験があるなら、なおさら」
窓の外で、部活の声が遠く響いた。
「気が抜けない自分を、責めなくていい。
“何もなかった日が怖い”って感覚は、ちゃんと理由がある」
相談者は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……じゃあ、いつ楽になれるんでしょう」
遥はすぐに答えなかった。
「分からない」
正直な言葉だった。
「でも、少なくとも“今日怖かった”って言っていい場所は、ここにはある」
相談者の肩が、わずかに下がった。
「何もされてない日に緊張する自分を、隠さなくていい。
それを言葉にできた時点で、もう一人で抱えてるわけじゃない」
教室に、また沈黙が落ちた。
さっきまでとは違う、少しだけ柔らかい静けさ。
相談者は立ち上がる前、もう一度遥を見た。
「……ありがとうございました」
遥は頷いた。
扉が閉まると、教室にはまた、何も起きていない時間が戻ってきた。
それでも遥は、その“何もない”が、どれほど神経をすり減らすものかを知っていた。
静かな日は、休息ではない。
次に備えるための、張り詰めた待機だ。
遥は窓の外を見ながら、来訪者が廊下の向こうへ消えていく足音を、最後まで聞いていた。