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放課後の相談室には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。
机の影が長く伸び、床の傷や埃までくっきり浮かび上がっている。
遥はいつもの席に座っていた。ノートは閉じたまま、視線は窓の外に向いている。
相談室と呼んでいるが、特別な準備は何もしない。ここにいる、それだけだ。
扉が小さく軋んで開いた。
相談者は中に入ると、すぐには近づかず、相談室の入口付近で立ち止まった。
逃げ道を確かめるみたいな視線だった。
遥は顔を上げ、視線を向ける。
呼ぶこともしない。ただ、来ていることを受け取る。
少しして、相談者はゆっくり椅子に座った。
「……怒ってないですか」
唐突な言葉だった。
遥は眉を動かしただけで、否定も肯定もしない。
「学校で、ちょっと……問題になってて」
相談者は膝の上で指を握りしめる。
「何があったのか、説明してって言われるんです。先生にも、周りにも」
言葉が、少しずつ荒くなる。
「ちゃんと話して、って。誤解を解くためだから、って」
相談者は一度、唇を噛んだ。
「でも……説明するの、もう無理で」
遥は身じろぎせず、聞き続ける。
「説明しようとすると、何が起きたのかじゃなくて……
“どれだけ嫌だったか”とか、“どこが一番きつかったか”を言わなきゃいけなくなる」
相談者の声が、低く震えた。
「それを、なんで……自分がやらなきゃいけないんだろうって」
教室に、遠くの足音が響く。
「何もしてない側は、“よく分からないから教えて”って言うだけで済むのに。
こっちは、もう一回同じ場所に戻されるみたいで」
相談者は視線を落とした。
「説明しないと、“ちゃんと話さないのが悪い”って言われる。
説明したらしたで、“そんなに深刻に考えすぎじゃない?”って言われる」
小さく笑ったが、笑いにはならなかった。
「……どっちにしても、傷つくのは自分だけで」
遥は、少し間を置いてから口を開いた。
「説明を求められるのってさ」
静かな声だった。
「理解したいから、とは限らないこともある」
相談者が、ゆっくり顔を上げる。
「“分からないままでいたくない”っていう、周りの都合のことも多い」
遥は視線を逸らさずに続けた。
「何があったかを整理する前に、言葉にさせられるときつい。
まだ中で終わってないことを、外に出さなきゃいけなくなるから」
相談者の指が、少し緩んだ。
「……自分が悪いみたいに感じるんです。
説明できないのが、逃げてるみたいで」
遥は首を振らない。ただ、淡々と言う。
「説明できないのは、まだ傷が開いてるだけだ」
相談者は息を詰めた。
「説明する義務があるのは、本当は……やった側か、起きた事実を処理する立場の大人だ」
遥の言葉は、強くも優しくもない。
ただ、まっすぐだった。
「傷ついた側が、納得できる形にまとめ直す必要はない」
相談者の目が、揺れた。
「でも……黙ってると、“なかったこと”にされそうで」
遥は少しだけ視線を落とした。
「それは、怖いと思う」
短い肯定だった。
「だから、“今は説明できない”って言っていい。
“話したくない”じゃなくて、“まだ無理”って」
相談者は、ゆっくり頷いた。
「説明できない自分を、弱いと思わなくていい。
それは、ちゃんと守ってるってことでもある」
沈黙が落ちる。
さっきまで張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。
相談者は立ち上がる前、ぽつりと呟いた。
「……説明しなくても、傷ついたって事実は消えないですよね」
遥は一度だけ頷いた。
「消えない」
扉が閉まり、相談室はまた静かになった。
説明しなくてもいい傷がある。
言葉にした瞬間、また切り開かれる痛みがある。
遥は、何も書かれていない机の上を見つめながら、
それでもここに来たという行為自体が、すでに説明以上のものだと知っていた。