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相談室のドアが閉まる音は、いつも少しだけ鈍い。
日下部は机の端に肘を置いたまま、来訪者の足元を見る。靴が揃えられているか、無意識に確認する癖は、未だに抜けない。
「……別に、困ってるってほどじゃないんだけどさ」
そう前置きしてから、その人は椅子に深く腰を下ろした。
指先が落ち着かず、ジーンズの縫い目をなぞっている。
「なんか最近、自分の気持ちが分かんなくて。
怒ってるのか、悲しいのか、嬉しいのかも曖昧でさ」
日下部は頷かない。ただ、視線を外さずに聞いている。
「みんなが笑ってるときに、遅れて『あ、今笑うとこだった』って気づいたり。
逆に、あとで一人になってから、急に腹が立ったりしてさ」
少し間が空く。
その沈黙を埋めるように、言葉が続く。
「その場では何も感じてないみたいなのに、時間が経つと押し寄せてくる。
自分の感情なのに、ワンテンポ遅れてやってくるのが気持ち悪くて」
「……怖い?」
日下部が静かに聞くと、相手は一瞬だけ眉を寄せた。
「怖いっていうか……信用できない感じ。
今の自分の気持ちを、そのまま信じていいのか分かんない」
日下部は椅子にもたれかからない。
背筋を伸ばしたまま、淡々と話す。
「それ、感情がないわけじゃない。
ただ、感じる“余裕”が後回しになってるだけだ」
「余裕?」
「反応する前に、考える癖がついたんだと思う。
ここでどう振る舞うべきか、間違えてないか、空気壊してないか」
その人は、小さく笑った。
「それ、よく言われる。考えすぎだって」
「考えすぎなんじゃない。生き残るためのやり方だったんだろ」
日下部の声は低く、断定しないが揺れがない。
「即座に感情を出すと、痛い目に遭ったことがある人は、
一回、内側で検閲してからじゃないと動けなくなる」
沈黙。
今度は重くない。
「……じゃあさ」
相手は少しだけ前のめりになる。
「どうやったら、自分の気持ちをちゃんと感じられるようになる?」
日下部はすぐに答えない。
少し考えてから、ゆっくり言う。
「“分かろうとしない時間”を作れ。
今どう感じてるか、正解かどうか、判断しなくていい時間」
「それ、難易度高くない?」
「高いな。だから長くかかる」
それでも、と日下部は続ける。
「遅れて出てくる感情も、お前の本音だ。
遅いから偽物、なんてことはない」
「……後から来る怒りも?」
「ああ。押さえ込まれてただけだ」
相手は深く息を吐き、天井を見た。
「なんかさ、
ちゃんと感じられない自分って、人として欠けてる気がしてた」
「欠けてるんじゃない。
無理して壊れなかっただけだ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
「……ここ来てよかったかも」
日下部は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「結論を急ぐな。
感情は、追いつこうとするほど逃げる」
そう言って、机の端を軽く指で叩く。
「今日は、それを知れたなら十分だ」
相談室のドアが開く。
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、日下部は一人、静かに息を整えた。
遅れてやってくるものを、拒まない。
それは、思っているよりずっと難しく、そして必要なことだった。