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遥が教室に入ると同時に、ざわり、と空気が動く。誰もこちらを見ていない。視線だけが、皮膚の裏に這いまわる。
机はまた、後ろに引かれていた。椅子は黒板の前にある。
いつもの位置。遥の定位置。
「”うしろ姿”しか見られないように」配置されている。
背後から誰かが声を落とす。
「今日、何分耐えると思う?」
「昨日は4時間だったっけ? あーでも6限のあと泣いてたか、あいつ」
「てかさ、マジでキモくない? よく生きてるよね、あれで」
笑い声。
机に戻そうと手を伸ばした瞬間、誰かの足が背中に入った。
どさっ。
うつ伏せに倒れ込む。咄嗟に口を押える。声が漏れないように。
「喋るなって言ったよな?」
「声、マジで耳障り。女のくせにさ」
「え? どっちなん? 性別」
「クラスの便所だって言ったじゃん。性別とかもう無いって」
男子も女子も、同じような口ぶりだった。
輪郭が曖昧なほどに慣れた、”いつもの”開始。
体育の授業。
更衣室に入るなり、押し出される。
「あ、おまえはあっちね」
「一人用、更衣室」
掃除道具入れに、制服を押し込まれる。
シャツを脱いだ体に、マジックで書かれる言葉。
「便器」「メス犬」「ゴミ以下」「呼吸すんな」
「汗で消えるから大丈夫でしょ」
「そもそも見るやついないって。誰も遥見てないから」
見ている。全員が。
一人の動きすべてが、観察されている。
動かなくても、動いても、罰。
体育の授業中、わざとぶつかられる。倒される。
上にまたがる男子。
「こいつ、いけそうじゃね? 目とか、ほら、こーんな顔してるし」
「録っとく?」
スマホのシャッター音。笑い声。
周囲の女子たちも遠巻きに見て笑っていた。
昼休み。
弁当箱は開けたとき、空だった。
中身は床にぶちまけられていた。
「生ゴミじゃん」
「てか、よくあんなの食べてたよね。マジで犬」
水筒の中には、黒い液体。中身は不明。
机の下には、生理用品、潰れたパン、濡れた雑巾、
そして紙切れ。
《今日の仕事:トイレ掃除/先生に笑顔で挨拶/泣かない/耐える》
誰が書いたのか、もうわからない。
誰が笑ったのかも、もう数えきれない。
6限。道徳。
教師は、遥の異変に気づいていた。
けれど、
「“空気を読む”って、どういうことでしょう?」
「“調和”を乱す人に、どう接すればいいですか?」
遥を見て、言う。
笑い声がこぼれる。
「そうだな……遥、意見を」
声をかけられる。
声が出ない。
喉が詰まる。
視界がにじむ。
全員の目が、突き刺さる。
言葉は出ない。
教師の目が冷めていく。
「発言できないのは、クラスの責任でしょうか?」
ざわめき。
笑い声。
女子の誰かが、咳払いで、「キモ」と言った。
遥は、その瞬間、笑った。
喉の奥が裂けるように、無理やり音が漏れた。
壊れたような、引きつったような、笑い声。
誰も笑っていないのに、遥だけが笑っていた。
「……あの、違います、ちがっ……ごめ……」
しゃくりあげる。笑いながら泣く。
わけがわからない。
息が止まらない。
そして次の瞬間、遥は机を蹴った。
音。
静寂。
机が転がる。椅子が倒れる。
自分の声が響いていた。
「――――殺してよ、もう……!!」
誰も動かなかった。
教師も、誰一人として。
沈黙の中で、遥は蹲った。泣き叫びながら、地面を叩いた。
自分の手が痛いのかもわからなかった。
ただ、声が漏れた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」
「俺が……いるのが……悪いの、は……」
やがて、遠くから聞こえたのは、
「記録しとけ、記録しとけ」
「やっば……こいつ、マジで壊れたじゃん」
という声。
この“決壊”は、回復ではない。
底が抜けただけだった。
明日からは、もっと深くなる。
彼らは、壊れた遥を、さらに壊すだろう。