そして次の日海斗はスタジオにいた。
イベントのリハーサルをした後、メンバーと仕上がっている新曲の編成を少しずつ始める。
それぞれの楽器ごとにパートのアレンジを加えていく。
この地道な作業はとても根気のいるものだったが、何もないところから一つの作品に仕上がるまでの過程に、
海斗はとてもやりがいを感じていた。
仲間と意見を交わす事により思っていた以上の出来になる事も多く、海斗はこの作業が楽しみだった。
メンバー達はほぼ休みなしで朝からずっとスタジオにこもっていた。
気づいた時にはもうすっかり夕方になっていた。
今日はこの辺で終わりにするかと、海斗は皆に声をかける。
それから全員スタジオを出た。
海斗以外のメンバーは全員家族持ちだった。
昔は明け方までスタジオに引きこもり作業をしていた時もあったが、今はそこまで無理はしない。
秋のコンサートツアーが近づいて来たら嫌でも忙しくなる。
それまでは、なるべく明るいうちに家に帰すようにしていた。
海斗はこの日自分の車でスタジオに来ていた。
一番最後にスタジオを出た海斗は、駐車場に停めてある黒のランドクルーザーに乗り込んだ。
ロック歌手というと派手なスポーツカーのイメージが強いが、
海斗は若い頃からバス釣りの趣味があったので車はずっとこういうタイプだ。
もっとも、最近は多忙な為釣りには全く行っていない。
車はほとんど新品のまま置き物のようになっているので、たまにこうして乗るようにしている。
エンジンをかけた海斗はゆっくりと車をスタートさせた。
道を走り始めると、この時間帯はなんとなく慌ただしい雰囲気が漂っている。
家路へ急ぐ人達で歩道には人がぎっしりと溢れていた。
海斗がラジオをつけると、ちょうど夕暮れ時に似合うジャズが流れ始める。
ジャズに気分を良くしながら運転していると、急に空の色が変化した。
(これは……)
先ほどまではいつもと変わらない夕暮れの景色だったが、今は空全体が深い青色に包まれていく。
街全体が青に飲み込まれてしまうのではないかというほど、辺りは強烈なブルーに染まっていった。
海斗は慌ててウィンカーを出して車線を変更する。
運転しながらカーナビをチラッと見た。
(たしかこの辺りには高台があったな)
そう思った海斗は、ナビを頼りにその高台へと急ぐ。
もしかしたら沈みゆく月が見えるかもしれない。
海斗は急いだ。
このチャンスを逃したくない。
そう思いながら逸る気持ちで大通りを何度か曲がった後、最後に右折して細い道へ入る。
その先に見える長い坂道のてっぺんを目指した。
一番上の突き当りまで行くと右折する。
そこにちょうど開けた場所があったので、海斗は車を停めるとエンジンを切った。
周りは閑静な住宅街だった。
車の左側にはガードレールがある。
そのガードレールの先には遮るものが何もなく、街を一望出来た。
海斗は素早く車を降りると、その瞬間を待っていたかのように空はさらに深い群青色へと変化した。
空と地上の境目は、ほんのりオレンジ色に染まりうっすらと富士山のシルエットが浮かび上がっている。
(月はどこだ?)
海斗は月が存在するであろう方角を必死に探した。
すると細くて繊細な三日月が、群青色の空に溶け込みながら沈んでいくのが見えた。
(これがブルーモーメントに沈む月か)
海斗はその光景を見て、感動で身動きがとれなかった。
都会でこんな景色が見られるのかと驚いていた。
しかしふと何かを思いついたように携帯を取り出すと、
すぐに目の前の美しい光景を写真に収めた。
海斗はその写真を美月に送ろうと思っていた。
この美しい光景を彼女と共有したい…そんな思いだけが募る。
【俺の『月遊び』の成果です】
そう件名を打ち込みと、すぐに写真を添付して送信した。
それから少しホッとした様子で、月が完全に沈みゆくまでの光景を見つめ続けた。
その頃美月は、教室のお使いを頼まれてデパートのエスカレーターにいた。
エスカレーターの横はガラス張りで都会の街並みが見下ろせた。
美月がぼんやり景色を眺めていると、徐々にビルの合間の空が群青色に染まってきた。
(ブルーモーメント…)
その時、携帯にメッセージが届いた。
美月は誰だろうと思いながら携帯を見ると、メッセージは海斗からだった。
美月は慌ててメールを開いてみると、そこには一枚の写真が添付されていた。
それは何とも言えない美しい写真だった。
群青色とオレンジ色の境目に、今にも消え入りそうな儚げな月が沈もうとしている。
その写真は水彩画のように抒情的でうっとりするほど美しかった。
美月は、海斗がこの美しい瞬間を送ってくれたという事に感動していた。
そして海斗が書いた、
【俺の『月遊び』の成果です】
という件名にクスッと笑う。
しかし次の瞬間美月はエスカレーターをもの凄い勢いで駆け上がると、
デパートの売り場を走り抜けてから屋上へ続く階段へ向かった。
階段を一番上まで一気に駆け上がると、屋上へ通じるドアを開ける。
外に出た瞬間、心地よい風が頬をなでた。
美月は月がある方向へ急いで向かった。
ハァハァと息を切らしながら、
「間に合った!」
と呟き、目の前に広がる景色を見つめた。
そこには、先ほど海斗が送って来た写真と同じ景色が広がっていた。
ブルーモーメントに沈みゆく儚げな月。
地上と空の境目のオレンジ色。
時折、その前を鳥の群れが横切っていく。
ほんの少しずつ、空の色は微妙に変化していく。
美月は、その自然が織り成す天体ショーを息を呑んでじっと見つめた。
完全に月が沈みきった頃、辺りは薄暗闇に包まれ始める。
美月はフーッと深呼吸をした後、携帯を手にした。
そして海斗への返事を打ち込んだ。
【素敵な写真をありがとうございます。私も同じ瞬間を見ていました】
その時海斗は車に乗り込もうとしていた。
すると携帯が音を立てる。
海斗は美月から返信が来たのだと思い慌ててメッセージを開いた。
美月からのメールを読んだ海斗は、穏やかに微笑んだ。
そしてすぐに、
【良かった。一緒に見られたね】
そう返信してから、エンジンをかけて車をスタートさせた。
美月が屋上からの階段を下りようとした時、海斗からの返事が届いた。
【一緒に見られたね】
という一文を見て、なんとも言えない満たされた気持ちになる。
東京のどこかで彼もこの月を観ていた。
同じ時刻に同じ光景を……でもそれぞれ違う場所で。
ううん、場所なんて関係ない。
空は繋がっている。つまり、同じ光景を見ていた私達は同じ空間にいたも同然なのだ。
自然が作り上げた神秘的な瞬間を一緒に共有できた、それだけで満足だった。
美月は嬉しくなり軽快な足取りで階段を下りて行った。
そして、当初の目的である買い物をしに、店内の売り場へと戻って行った。
コメント
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離れた場所で 同じ月を眺める二人🌆 どんなに離れた場所にいても、空も 二人の心も 繋がっている.... とても印象的で美しく、大好きなシーンです✨
同じ時に同じ風景をお互いのいる場所で共有できた奇跡的な一瞬☆彡 2人の心は繋がってるんだなぁ🤗💕
素敵すぎる…🥹これ以外の言葉が見つかりません。描写を想像すると2人の穏やかな笑みが想像できます✨