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朝の光は、まだ冷たかった。校門前の歩道を渡る生徒たちの中に、遥の姿があった。
マスクの奥で小さく息を吐く。
──今日こそ、何も起きませんように。
そう願っても、胸の奥のざらつきは消えなかった。
昇降口の前で、クラスメイトたちの笑い声が聞こえた。
「なあ、昨日の動画見た?」
「やばかったな、あれ。あいつ、またやられてたじゃん」
言葉の端々に混ざる“あいつ”の響き。
遥の足が、無意識に止まる。
靴箱の扉を開けた瞬間、背後から明るい声が響いた。
「おー、兄貴! やっと会えた」
振り向く。
そこに立っていたのは、颯馬だった。
制服の胸ポケットには別校の校章。
その目は笑っていた。だが笑っているのは、表情だけだった。
「え……なんで……」
遥の声が、かすれる。
颯馬はわざとらしく笑い、周囲を見渡す。
「いやー、兄貴が世話になってます、みなさん!」
クラスメイトたちの間に、戸惑いと興味の混ざったざわめきが走った。
「え、弟? 似てないー!」
「兄弟だったんだ、マジか」
「仲いいんだなー」
その“仲良し”という言葉に、遥の喉が締まった。
息が、浅くなる。
颯馬はそれを見逃さない。
「ねぇ兄貴、この学校、けっこう楽しい? 家じゃ全然喋んないから、心配してたんだよ」
「や、やめろ……颯馬」
「何が? 心配してるだけじゃん」
その声は柔らかい。だが、まっすぐ刺すように冷たい。
颯馬はさらに一歩近づき、遥の肩に手を置いた。
その瞬間、彼の指先が“痛みの記憶”を呼び起こす。
過去の夜の倉庫。沈黙の中の笑い。
遥の視界が滲んだ。
周囲の生徒たちは笑っている。
「弟くん、優しいじゃん」
「兄ちゃん心配されてる〜」
誰も気づかない。
その「優しさ」が、遥の喉を絞めていることに。
颯馬は、周囲の視線を利用して遥を囲い込んでいた。
家での支配が、教室の空気にまで延びていく。
何も知らない他人の笑いが、暴力を正当化する形になる。
「兄貴、顔色悪いな。昨日、寝れなかった?」
小声。
笑顔の裏で、刺すような囁き。
「──昨日のこと、言ったら殺すぞ」
その瞬間、遥の身体がびくりと震えた。
誰にも見えない角度で、颯馬の手が肩を強く握る。
一見すると兄弟のじゃれ合い。
だが、その圧は「所有の証明」だった。
そこに、日下部が駆けつけた。
「……颯馬」
声を発した瞬間、空気が張り詰める。
颯馬は振り向き、完璧な笑顔で言った。
「あ、日下部さん。お世話になってます。兄貴、いつも迷惑かけてないですか?」
「お前、ここに何の用だ」
「家族の心配しちゃ悪いですか?」
そのやり取りを、クラスメイトたちは好奇心と無関心の混ざった目で見ていた。
まるで、舞台の幕間を眺める観客のように。
日下部はその視線の重さに気づく。
──これが“現実”だ。
暴力は見えない形で広がり、観客の目の前で正当化されている。
颯馬はにやりと笑い、低く囁いた。
「“優しい人”って、損だよね。誰にも殴られない代わりに、誰も救えない」
その言葉が、日下部の胸をえぐった。
何もできない自分の現実を、正確に突かれていた。
彼は拳を握ったが、振り上げることはなかった。
颯馬の笑みがそれを読んでいた。
「殴ってみなよ。その瞬間、兄貴の“居場所”、なくしてやるから」
その囁きとともに、颯馬は背を向けた。
笑い声を残して校門の外へ消えていく。
クラスメイトの数人が興味本位でその背を見送る。
「弟くん、かっこいいな」
「雰囲気あるね」
──何も知らない言葉ほど、残酷なものはない。
日下部はその場に立ち尽くし、拳をゆっくりほどいた。
血の気が引いていく。
痛みはない。ただ、空虚な現実だけが残っていた。
その後ろで、遥は小さく息を吐いた。
声にならない悲鳴が喉に貼りついていた。
彼の沈黙は、颯馬の勝利ではなく、“生き残るための最後の言語”だった。