テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
昼の光は薄く濁っていた。
教室の窓から射す日差しが、どこか埃っぽく、透明さを失っている。
その中で、日下部はただ机の上に拳を置いたまま、目の前の現実を噛みしめていた。
――颯馬の笑み。
あれは暴力の形をしていながら、“支配の構造”そのものだった。
家庭の中に、学校の外に、そして何より「周囲の目」の中にまで浸透している。
颯馬が“弟”であるという事実。
その響きひとつで、教師も、生徒も、容易に錯覚する。
「家族仲がいいんだろう」と。
「弟くん、しっかりしてるね」と。
その言葉が、どれほどの暴力を覆い隠しているか、誰も知らない。
「……なあ、日下部」
隣の席の男子が声をかけた。
「お前さ、遥のこと、まだ気にしてんの?」
日下部は答えなかった。 代わりに、教室の隅を見やる。
そこに座る遥は、ノートを開いたまま、ペンを持つ手を硬直させている。
視線は一点に留まり、まるで世界の音が消えたようだった。
「だってさ、あの弟ヤバいらしいじゃん? 別の中学で評判だぞ。めちゃくちゃ頭もいいし、陸上選手として優秀って」
「兄弟であんなに違うんだな。あっちが“できる弟”なら、こっちは……まあ、“ハズレ”か」
笑いが漏れる。
椅子を軋ませる音、机を指で叩く音。
誰かが遥のペンケースを奪って床に落とした。
それを拾おうとした瞬間、靴のつま先が無造作に踏みつけられる。
「ほら、拾ってみろよ。弟に比べたら、反射神経も鈍いんじゃね?」
笑い声が連鎖していく。
だが、そこには怒号も罵倒もない。
あるのは、淡々とした“消費”。
誰もが、誰かを痛めつけることで、自分が安全圏にいると信じ込む。
日下部は立ち上がりかけた。
だが、その瞬間、後ろの女子が小声で呟くのが聞こえた。
「日下部くんもさ、あいつと関わらない方がいいよ。弟くん、結構怖い人らしいし。……関わったら、巻き込まれるよ?」
その言葉で、彼の足が止まった。
空気が凝り固まり、動けなくなる。
構造は、個人の意志よりも重い。
一人の「弟」が築いた外面の信頼が、兄の「孤立」を永久に支える仕組みになっている。
遥は、笑わない。泣かない。
ただ、机の上でペンを持つ手を震わせる。
黒いインクがノートの隅に滲み、まるで誰かの叫びが形を持ったようだった。
日下部は拳を握り、視線を落とした。
――“何が正しいのか”を理解した瞬間、自分が何もできないことも同時に分かってしまう。
颯馬の暴力は、殴ることよりも深い。
それは「世界の構造を味方につけた暴力」だった。
教師も、親も、友人も、その歪みの中で無意識に加担している。
昼休みのチャイムが鳴った。
ざわめきの中で、誰かが遥の背中にノートを投げた。
紙が滑って床に落ちる音。
遥は拾おうとしない。
その手を伸ばすことさえ、もう彼の中では“諦め”の一部になっていた。
日下部は席を立てなかった。
ただ、拳の跡が机に滲み、痛みだけが現実として残った。
その痛みを通して、ようやく理解する。
――戦う相手は、ひとりの弟じゃない。
“世界そのもの”が、颯馬の味方をしているのだ。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!