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121
あも
教室は、特に騒がしくも静かでもなかった。
いつも通りの雑談があって、いくつかのグループに分かれて、それぞれが同じくらいの温度で話している。笑い声はあるが、大きすぎない。誰も場を引っ張っていない代わりに、誰も外れてもいない。
その“均一さ”が、保たれている。
遥は、自分の席でノートを開いていた。
会話には入っていないが、完全に切り離されてもいない位置。声は聞こえているし、流れもなんとなく分かる。
分かるだけで、十分だと思っている。
関わらなければ、壊さないで済む。
それが一番安全だと、体が覚えている。
「昨日さ、あいつマジでやばくなかった?」
斜め前の席から声が飛ぶ。
何の話かは、少し遅れて分かる。昼休みに揉めていた別のクラスのやつのことだ。
「あれな、普通に引いたわ。なんであんなこと言えるんだろ」
「空気読めてないってレベルじゃないよな」
笑いが混じる。
否定しながらも、どこか楽しんでいる空気。
誰かが過剰にズレていることを、共有しているときの軽さ。
遥は、ノートに視線を落としたまま、その会話を聞いていた。
“空気読めてない”。
その言葉だけが、少し残る。
「お前どう思う?」
突然、声が向く。
名前は呼ばれない。
けれど、誰に向けられているかは分かる。
一拍遅れて、視線が上がる。
何人かがこちらを見ている。
試すような、軽い感じで。
重さはない。
だからこそ、逃げにくい。
「……別に、そこまでじゃないと思う」
言葉は、自然に出た。
考える前に出たわけではない。けれど、深く整える前に出てしまった。
一瞬、音が消える。
完全な沈黙ではない。
誰かが椅子を動かす音がして、遠くで別の笑いがある。
でも、この周囲だけが、切り取られたみたいに静かになる。
「……は?」
短い声が落ちる。
問いというより、確認。
「いや、あれ普通に引くだろ」
「みんなそう言ってるじゃん」
言葉が重なる。
さっきまでと同じトーンのはずなのに、向きが変わっている。
遥は、少しだけ息を吸う。
(合わせればいい)
すぐにそう思う。
思うのに、さっき言った言葉が残っている。
消せない。
訂正すればいいはずなのに、タイミングが分からない。
「……でも、言ってること自体は、間違ってなかったし」
出てしまう。
さっきよりも、少し具体的に。
余計に。
誰かが笑う。
今度は、さっきのような軽い笑いじゃない。
一歩引いたところからの、距離のある笑い。
「いや、何それ。擁護してんの?」
「そういうとこだよな」
すぐに言葉が乗る。
遅れない。
さっきまでの流れより、はっきりと揃う。
遥は、喉の奥が少しだけ乾くのを感じる。
(違う)
と思う。
違う、というより、ずれている。
今の言い方は、よくなかった。
でも、何が正しかったのかは、もう分からない。
「そういう正論っぽいのさ、今いらないから」
誰かが言う。
強くはない。
けれど、区切るには十分な強さ。
「今の流れでそれ言うの、普通に空気壊してるって分かる?」
“空気”。
その言葉が出た瞬間、全体の意味が固定される。
個人の意見じゃなくなる。
場の問題になる。
「……別に壊すとかじゃなくて」
言いかける。
言いながら、遅いと分かる。
「ほら、そうやってさ」
被せられる。
途中で切られる。
「説明しようとするのが、もうズレてるんだって」
「そう、そこなんだよな。なんで毎回そうなるの」
ため息の音が混じる。
わざとらしくはない。
自然な反応として出される。
それが、余計に刺さる。
遥は、口を閉じる。
ここで続けても、悪くなるだけだと分かる。
分かるのに、さっきの一言が消えない。
(やった)
遅れて、理解する。
空気を壊した。
ほんの少しのズレだったはずなのに、それがはっきりと形になっている。
周囲の視線が、さっきとは違う。
軽さが消えて、測るような目になる。
誰も怒ってはいない。
でも、許されてもいない。
「もういいって、そういうの」
誰かが締めるように言う。
「合わせればいいだけなんだからさ」
簡単なこととして提示される。
難しさは、そこには含まれていない。
遥は、何も言わない。
言えない、ではなく、言わない。
ここで黙ることが、最低限の修正になると分かっているから。
会話は、別の話題に移る。
少し無理やりに。
けれど、それもすぐに馴染む。
笑いが戻る。
さっきと同じくらいの音量で。
同じように、均一に。
ただ、その均一さの中に、自分が含まれていないことだけが、はっきりする。
遥はノートに視線を落とす。
文字は目に入らない。
(なんであれ言った)
思考が、そこに戻る。
言わなければよかった。
最初に合わせればよかった。
「そうだね」で終わらせればよかった。
それだけで、何も起きなかった。
分かっていることを、やらなかった。
だから、こうなった。
(自分のせいだ)
結論は、すぐに出る。
疑う余地はない。
もし違うと考えれば、その考え自体がまたズレになる。
それは避けないといけない。
だから、考えを止める。
止めたまま、次を待つ。
さっきの空気は、完全には消えていない。
表面は戻っている。
でも、下に残っている。
少しのきっかけで、また引き上がる位置に。
それを、全員が共有している。
言葉にしなくても分かる形で。
遥だけが、それを“原因”として持っている。
コメント
1件
うわあ……読んでて胸が締め付けられました。「合わせればいいだけ」という言葉の残酷さがすごく伝わってきて。遥が「そうだね」で終わらせられなかった、ほんの少しの正直さが逆に彼女を孤立させるこの構造、リアルで苦しいです。クラスの“均一な空気”に自分だけ含まれなくなっていく感覚の描き方が丁寧で、続きが気になります。