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久我は、取り調べ室の前で一度立ち止まった。
ノブに手をかけるまでの数秒が、以前より長く感じられる。
深呼吸を一つ。
業務だ。感情を挟む余地はない。そう自分に言い聞かせて、ドアを開けた。
黒瀬は、すでに座っていた。
椅子の背に深くもたれることもなく、背筋を伸ばし、まっすぐ前を向いている。その姿勢が、ここが“檻”であることを忘れさせる。
「こんにちは、久我さん」
挨拶は穏やかだった。
昨日よりも、わずかに柔らかい。
「……その呼び方はやめろ」
久我は、はっきりと言った。
「なぜですか」
「取り調べでは不適切だ」
「では、警部補」
黒瀬は言い換えたが、声の温度は変わらない。
「それとも、名前を呼ばれると困りますか」
久我は、答えなかった。
机に書類を置き、録音機のスイッチを入れる。赤いランプが点く。
「昨日の続きだ。失踪者との接点を――」
「久我雄一」
フルネームだった。
空気が一瞬、張りつめる。
「……どこでそれを知った」
「資料にありました。あなたは、思ったより不用心だ」
淡々とした言い方だった。
だが、そこに含まれる距離のなさが、久我の神経を逆撫でする。
「公的資料の話をしているなら、呼び捨てにする理由はない」
「距離を測っているだけです」
黒瀬は、目を伏せずに言った。
「名前は、境界を越えるための道具でしょう」
久我は、椅子に腰を下ろし、腕を組んだ。
「越えるつもりはない。君と私は、明確に立場が違う」
「ええ。あなたは外、私は中」
黒瀬は静かに頷く。
「だからこそ、対話が成立する」
久我は、言葉を選びながら口を開いた。
「……君は、自分の置かれている状況を理解していないわけじゃない。
それでも、なぜこんな回りくどいことをする」
「回りくどい?」
「事件を語らず、私の内面ばかりを突く。目的は何だ」
黒瀬は、少し考える素振りを見せたあと、口を開いた。
「あなたが“何を信じる人間か”を知りたい」
「それが分かって、どうする」
「間違えないためです」
久我の眉が、わずかに動いた。
「……何をだ」
「選択を」
黒瀬は、静かに言った。
「真実を知ることが、必ずしも正義ではない場面がある。
あなたは、それを知っている人だ」
久我は、喉の奥が乾くのを感じた。
黒瀬の言葉は、推測にしては踏み込みすぎている。
「君は、私を試しているのか」
「守っています」
即答だった。
「あなたが壊れないように」
その言葉に、久我は思わず机を叩きかけ、寸前で止めた。
感情を見せれば、相手の思惑通りだ。
「……君が私を守る理由はない」
「理由がないほうが、正しい」
黒瀬は、ほんの少しだけ目を細めた。
「もし理由があったら、それは依存です」
その単語が、空気に落ちる。
久我は、胸の奥が冷えるのを感じた。
「……君は、自分が依存しているとは思わないのか」
「思いません」
黒瀬は首を横に振る。
「私は、選んでいます」
何を、とは言わなかった。
だが、その沈黙が、逆に重い。
久我は、話題を強引に引き戻す。
「失踪者の一人、三枝についてだ。君は――」
「久我さん」
また名前。
今度は、拒絶よりも先に、慣れが来てしまったことに気づき、久我は内心で舌打ちする。
「その人の名前を出す前に、一つだけ確認させてください」
「……何だ」
「もし私が犯人だったとして」
黒瀬の声が、ほんのわずかに低くなる。
「あなたは、私を裁きたいですか。
それとも、理解したいですか」
久我は、即答できなかった。
沈黙が、取り調べ室に沈む。
その沈黙の中で、黒瀬は確信したように頷く。
「ほら。答えが遅れた」
黒瀬は、初めて“嬉しそう”と取れる表情を浮かべた。
「名前を呼ぶ価値がある」
久我は、視線を逸らした。
その行為自体が、すでに一つの答えになっていることを、誰よりも自覚しながら。
取り調べ室の中で、
名前だけが、静かに境界を越えていた。