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相談者は、椅子に座ってすぐ天井を見た。
「今日さ」
「うん」
「別に、何もなかった」
「その前置き、危険だな」
蓮司が言うと、相談者は小さく笑った。
「だよな」
「だいたい“あった”時の言い方」
「でも本当にない」
「事件も?」
「ない」
「揉め事も?」
「ない」
「怒られた?」
「ない」
相談者は指を折るのをやめた。
「なのに」
「うん」
「もう無理」
蓮司はすぐには返さなかった。
「体?」
「重い」
「心?」
「静か」
「静か?」
「騒いでない」
相談者は胸に手を当てる。
「切羽詰まってない感じが、一番やばい」
蓮司は頷いた。
「正解」
「え」
「限界の一個手前」
「手前?」
「ブレーキ踏まなくなる段階」
相談者は眉をひそめる。
「事故るやつじゃん」
「そう」
「何で?」
「警告音、無視し続けたから」
少し間が空く。
「俺さ」
「うん」
「ちゃんとやってる」
「知ってる」
「休んでないわけじゃない」
「知ってる」
「なのに回復しない」
「それな」
蓮司は椅子にもたれた。
「回復って、出来事の量じゃない」
「じゃあ何」
「緊張の継続時間」
相談者は考える。
「ずっと張ってると?」
「切れない」
「ゴムみたいだな」
「切れる前に、伸びなくなる」
相談者は息を吐いた。
「俺、切れないタイプ」
「切れないやつほど危ない」
「なんで」
「止まらないから」
相談者は黙る。
「なあ」
蓮司が言う。
「限界ってさ」
「うん」
「派手なサインだと思ってない?」
「倒れるとか?」
「泣くとか」
「怒鳴るとか」
「全部、分かりやすい」
「俺は?」
「静か」
相談者は小さく笑った。
「最悪じゃん」
「最悪に気づけてる」
「救い?」
「まだハンドル握ってる」
相談者は椅子の背にもたれた。
「何も起きてないのに休むと」
「うん」
「サボってる気になる」
「なるな」
「理由がない」
「ある」
「どれ」
「もう無理」
相談者は首を振る。
「それ、説明にならない」
「説明しなくていい場所もある」
「ここ?」
「ここ」
少し沈黙。
「俺さ」
「うん」
「限界って言葉、使うの怖い」
「分かる」
「大げさって思われそう」
「思う人もいる」
「じゃあ」
「言い換える」
「何て」
蓮司は少し考えて言った。
「余白がない」
「余白」
「考えなくていい時間が、ゼロ」
相談者は目を閉じる。
「あー……」
「当たった?」
「全部、何かしてる」
「それだ」
蓮司は続ける。
「余白がないと」
「うん」
「回復の指示が出ない」
「体が?」
「体も、頭も」
相談者は深く息を吐いた。
「じゃあ俺」
「うん」
「何すればいい」
「何もしない時間を、予定に入れる」
「矛盾してない?」
「今はそれでいい」
「何分」
「五分」
「短」
「続く」
相談者は立ち上がる。
「今日」
「うん」
「ここ来たのも、余白?」
「そう」
「何も起きてないのに?」
「何も起きてないから」
ドアの前で、相談者が振り返る。
「なあ」
「なに」
「限界って」
「うん」
「壊れてから気づくもんだと思ってた」
「それは遅い」
「じゃあ今は?」
「予告」
相談者は少しだけ笑った。
「じゃあ、回避できる?」
「できる」
「よかった」
ドアが閉まる。
限界は、
音を立てない。
だから気づけた人は、
もう半分、助かってる。