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空乃 美晴
89
雨晒しの原稿用紙
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病院の廊下は、夜でも明るすぎた。
クリストルンは硬い椅子に座ったまま、何度目か分からない説明を医師から受けていた。過労と栄養不足、そして無理が重なったのだろうという。命に別状はない。その言葉で力が抜けたはずなのに、膝はまだ震えていた。
病室へ入ると、モンジェは点滴につながれて眠っていた。
あんなに大きな人なのに、白いシーツの中では急に輪郭が細く見える。
クリストルンはそっと椅子を引き、ベッドの脇に座った。
「……ほんと、びっくりした」
返事はない。
けれど、無言の相手に話しかけるほうが今は楽だった。
「私、まだ怒ってるからね。勝手に全部抱えるのも、勝手に倒れるのも、ずるい」
そこで声が詰まる。
怒っているのは本当だ。怖かったのも本当だ。
隣のベッドから、小さな音が聞こえた。
幼い女の子が、くまのぬいぐるみを抱いている。看病に来ていた母親が席を外したらしく、祖母らしき女性が付き添っていた。
女の子が、ぬいぐるみの手のひらを押す。
『すぐ戻るからね。ちゃんと待っててえらいね』
やわらかな女性の声が、ぬいぐるみから流れた。
クリストルンは顔を上げる。
女の子はその声を聞いて、少しだけ安心したようにぬいぐるみに頬を寄せた。
「お母さんの声?」
思わず聞くと、付き添いの女性がうなずく。
「入院が長引いてるでしょう。夜になると不安がるから、家で録ってきたの」
簡単なようで、難しいことだ。
ちゃんと伝えたい一言を、あとから聞ける形で残すこと。
クリストルンは自分の膝の上で手を握りしめた。
やっぱり、あの玩具は必要だ。親が子に、子が親に、言えないまま飲み込んでしまう言葉を、ちゃんと手渡せるものがいる。
「お父さん、聞こえてる?」
モンジェの寝顔に向かって、小さく言う。
「私、あきらめないから」
そのとき、閉じられていた唇がわずかに動いた。
「……泣くな」
かすれた、ほんの短い声だった。
クリストルンは一瞬、息を止めた。
「起きてるの?」
目はまだ閉じたままだ。それでも、確かに父の声だった。
「泣いてないし」
言い返した途端、自分の頬が濡れているのに気づく。
隣のベッドの女の子が、くまを抱いたままこちらを見ていた。気まずくて、クリストルンは笑ってみせる。
「大人も泣くんだね」
女の子が真顔で言う。
「泣くよ」
クリストルンは鼻をすすった。
「でも、ちょっとだけ」
女の子は納得したのか、またぬいぐるみに顔を埋めた。
病室は静かだった。
機械の音、遠い足音、小さな寝息。その中で、モンジェの一言だけが妙にはっきり残る。
泣くな。
たぶんそれは、父なりの「大丈夫だ」だった。
不器用で、短くて、でもちゃんと届く言葉。
クリストルンはベッドの縁に手を置き、深く息を吸う。
病室の白さの中で、やるべきことが少しだけはっきりした。
守られるだけの娘では終わらない。
でも今夜だけは、父が生きてここにいることに甘えてもいい気がした。