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空乃 美晴
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雨晒しの原稿用紙
病院の待合ロビーで、クリストルンは紙コップの水を両手で包んでいた。
モンジェが眠り、医師の説明も終わり、ようやく一息つけるはずなのに、体はまだ緊張したまま固まっている。喉が渇いているのに、水がほとんど減らない。
「飲まないなら、温かいものを買ってくる」
低い声がして顔を上げると、ルチノが立っていた。
スーツの上着も着ずに飛んできたのだろう。シャツの袖が少し乱れている。
「なんでいるの」
「ペトロニオから連絡が来た」
クリストルンは、そこで初めて自分が何人にも心配される側に回っていることを思い知った。いつもは走り回って、何かを支えるほうだったのに、今日は自分の足がうまく動かない。
「命に別状はないって」
そう言うだけで、声が掠れる。
ルチノは向かいに座らず、隣に腰を下ろした。真正面から見られたら、たぶん平気な顔を保てなかった。
「よかった」
そのたった四文字が、思った以上に深く染みた。
「私ね」
クリストルンは紙コップを見たまま言う。
「救急車の中で、何もできなかった。住所言うのも、年齢言うのも、うまくいかなくて」
「それでいい」
「よくないよ。私、助ける側でいたかったのに」
ルチノは少し黙ってから、静かに返した。
「ずっと助ける側にいる人間は、たまに壊れる」
その声には、自分自身への苦さも混じっているように聞こえた。
「君は今日、ちゃんと助けを呼んだ。それで十分だ」
クリストルンは唇を噛む。
十分なんて、思えない。父は倒れたし、仕事は止まったままだし、自分は何一つ片づけられていない。
「全然、十分じゃない」
すると、ルチノの手がそっと紙コップに触れた。
取り上げるのではなく、落とさないように支えるだけの触れ方だった。
「じゃあ、今日は半分でいい」
その言い方が、妙に優しかった。
全部じゃなくていい。半分でいい。そう言われた瞬間、張りつめていたものが少し緩む。
クリストルンはようやく水を一口飲んだ。
ぬるいのに、喉の奥が少し楽になる。
「……私、ひどい顔してる?」
「かなり」
「即答」
「でも、その顔を見せてくれて少し安心した」
クリストルンは眉を寄せる。
「どういう理屈」
「無理して笑われるほうが、見ていてきつい」
まっすぐすぎて、返す言葉がなかった。
しばらく黙って座っていると、ロビーの自動販売機の音や、遠くのエレベーターの開閉音が聞こえる。世界は何事もない顔で続いているのに、自分の中だけがまだ救急車の光の中にいた。
「少し、寄りかかってもいい?」
口にしたあとで、自分で驚いた。
こんな言葉を誰かに言う日が来るとは思わなかった。
ルチノは何も言わず、ただ肩を少し近づけた。
クリストルンはほんの短いあいだだけ、その肩に額を預ける。温かい。人の体温って、こんなに心を落ち着かせるのかと思った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
大げさな約束も、きれいな告白もない。
ただ、助けられる側にいる自分を、恥ずかしいと思わなくていい時間が、そこにあった。
しばらくして顔を上げると、ルチノの手がまだ近くにあった。触れそうで触れない距離。けれど次の瞬間、クリストルンの指先がほんのわずかにそれへ触れた。
逃げなかったのは、たぶんお互い同じだった。
今は恋より先に守るものがある。
それでも、この手の温度は、先の暗さを少しだけ照らしてくれる気がした。