夕方の相談室は、いつもより静かだった。
チャイムの音が遠くで鳴って、廊下を歩く足音もまばらになる時間帯。
ドアがノックされる。
「どうぞ」
入ってきた相談者は、背筋を伸ばしていた。
姿勢だけ見れば、問題を抱えているようには見えない。
「久しぶりだな」
「そうですね」
「元気そうじゃん」
「そう見えるなら、成功です」
蓮司は小さく笑って、椅子を示した。
「座れ」
相談者は腰を下ろすと、しばらく黙ったまま天井を見た。
「今日は?」
「……期待されないことに、慣れちゃったなって」
「ほう」
「褒められもしないし」
「うん」
「怒られもしない」
「あるあるだな」
「空気みたいなんです」
蓮司はペンを指先で転がす。
「透明人間?」
「そこまでいくとファンタジーですけど」
「じゃあ背景か」
相談者は苦笑した。
「教室でも、家でも」
「いてもいなくても?」
「はい」
少し間が空く。
「昔は」
相談者が続ける。
「期待されてた気がするんです」
「“お前ならできる”とか?」
「そういうの」
「で、今は?」
「何も起きない」
「一番来るやつだな」
相談者は視線を落とす。
「怒られないって、楽なはずなのに」
「うん」
「だんだん、自分が存在してる感じがなくなってきて」
「……」
「失敗しても、成功しても、反応がない」
蓮司は静かに聞いている。
「最初は、気にしないようにしてました」
「慣れるしな」
「慣れました」
「でも?」
「慣れたまま、しんどいです」
蓮司は頷いた。
「期待されないってな」
「はい」
「責められない代わりに、救われもしない」
相談者の指が、膝の上で止まる。
「何か起きないと、存在してるって思えなくて」
「でも起こす気力もない」
「そうです」
蓮司は椅子にもたれた。
「なあ」
「はい」
「怒られたいって思ったことあるか」
相談者は少し驚いた顔をした。
「……あります」
「だろ」
「最低だなって思いました」
「最低じゃない」
「え」
「普通だ」
蓮司は淡々と言う。
「怒られるってことは、少なくとも“見られてる”ってことだからな」
相談者はゆっくり息を吐いた。
「期待されないの、楽なんです」
「だろうな」
「何も背負わなくていい」
「でも?」
「……軽すぎて、足が浮く」
蓮司は軽く笑った。
「上手いこと言う」
「褒められました?」
「今のはな」
相談者が少しだけ笑う。
「なあ」
蓮司が続ける。
「期待されないことに慣れたやつってな」
「はい」
「自分で自分に期待するのも、やめがちだ」
「……それです」
「だろ」
「どうせって思って
背景のままでいいって思って」
「でも?」
相談者は小さく肩をすくめた。
「本当は、見てほしいです」
「そりゃそうだ」
「でも言えない」
「言わなくていい」
「え」
「今すぐはな」
蓮司は机に肘をついた。
「まず確認しろ」
「何を?」
「“何も起きてない”のと、“価値がない”は別だ」
相談者は黙る。
「反応がないのは、お前が空っぽだからじゃない」
「……」
「周りが、見るのをやめただけだ」
相談者の表情が、少し揺れた。
「それって」
「理不尽だろ」
「はい」
「でもな」
蓮司は穏やかに続ける。
「理不尽な場所で、自分まで消す必要はない」
相談者はしばらく黙ってから、立ち上がった。
「……今日は、それだけでいいです」
「十分だ」
ドアの前で、相談者が振り返る。
「また来てもいいですか」
「背景扱いはしない」
「それなら」
相談者は小さく手を振って、出ていった。
夕方の相談室には、まだ少しだけ、人の気配が残っていた。






