テラーノベル
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夕方の光が、相談室の窓に薄く残っていた。
昼と夜の境目みたいな、はっきりしない色。
ドアが二回、軽く叩かれる。
「開いてる」
入ってきた相談者は、表情が読みにくかった。
無表情というより、整いすぎている。
「座る?」
「どうも」
椅子に腰を下ろしても、背中はまっすぐだった。
「今日は?」
蓮司が聞くと、相談者は少し考えてから言った。
「……最近、何も感じなくなってきました」
「ほう」
「嫌なことが起きても、前ほど傷つかない」
「いいじゃん」
「はい。でも」
「“でも”が来るな」
相談者は小さく笑った。
「嬉しいことがあっても、同じです」
蓮司はペンを止める。
「楽しくない?」
「楽しいはずなんですけど」
「はず、か」
「頭では分かるんです。今のは喜ぶ場面だ、とか」
「マニュアル通りだな」
「でも、心がついてこない」
相談者は指先を見つめた。
「前は、もっと揺れてました」
「喜びも?」
「はい。落ち込むのも、舞い上がるのも」
「今は?」
「平坦です」
蓮司は椅子にもたれた。
「防御、完成したな」
「……やっぱりそう見えます?」
「完璧だ」
「褒められてます?」
「事実だ」
相談者は苦笑した。
「もう、傷つきたくなかったんです」
「だろうな」
「期待しなければ、裏切られない。
関わりすぎなければ、失わない。
感情を動かさなければ、安全」
蓮司は頷いた。
「正解だらけだ」
「なのに」
相談者の声が少し低くなる。
「生きてる感じがしなくなってきて」
「……」
「毎日、ちゃんと過ぎてるのに」
「ちゃんと、が怖いやつだ」
相談者は視線を上げる。
「これって、回復じゃないですよね」
「違うな」
「じゃあ何ですか」
蓮司は少し考えてから言った。
「停止」
「停止……」
「壊れないために、全部止めた」
相談者は黙り込む。
「なあ」
蓮司が続ける。
「傷つかなくなったって言ったな」
「はい」
「ほんとか?」
「……前ほど、じゃないですけど」
「それ」
「?」
「“傷”のセンサーを切っただけだ」
相談者の眉がわずかに動く。
「感じないふり、上手くなっただけだ」
「……」
「だから喜びも、引っかからない」
相談者は息を吐いた。
「戻れるんですか」
「何に?」
「前みたいに」
蓮司は首を振る。
「同じ場所には戻らない」
「……ですよね」
「でもな」
蓮司は机を指で軽く叩いた。
「別の動き方はできる」
「どうやって」
「いきなり“喜ぼう”とすんな」
「はい」
「防御したまま、ちょっとだけ触れる」
相談者は首をかしげる。
「例えば」
「楽しいはずの場面で、楽しくなくても、責めない」
「……」
「嬉しくなくても、“変だ”って言わない」
「……」
「何も感じない自分を、異常扱いしない」
相談者の肩が、ほんの少し下がった。
「防御はな」
「はい」
「生き延びるために作ったもんだ」
「……」
「役目が終わるまで、無理に壊すな」
しばらく沈黙が落ちる。
「でも」
相談者が小さく言う。
「このままだと、ずっと無のままな気がして」
蓮司は窓の外を一瞬見る。
「無はな」
「はい」
「永遠じゃない」
「……」
「感じない状態にも、限界が来る」
相談者は不安そうに見た。
「それ、危なくないですか」
「危ない」
「じゃあ」
「だから」
蓮司は視線を戻す。
「今は“安全に揺れる”練習だ」
「安全に?」
「全部じゃなくていい」
「……」
「一瞬、ちょっとだけ」
相談者はゆっくり頷いた。
「今日、何か感じた?」
蓮司が聞く。
「……正直」
「うん」
「ここに来たの、少しだけ面倒でした」
「はは」
「でも」
「でも?」
「話してるうちに、少し疲れました」
蓮司は微笑む。
「それだ」
「え」
「疲れるってことは、動いてる」
相談者は驚いた顔をしてから、静かに笑った。
「そういう見方もありますね」
「ある」
立ち上がる前、相談者が言った。
「まだ、喜べなくてもいいですか」
「いい」
「このままでも?」
「今はな」
相談者はドアの前で立ち止まる。
「……また来ます」
「防御、外さなくていいからな」
「分かりました」
ドアが閉まる。
夕方の光は、もうほとんど消えていた。
それでも、止まっていた空気は、少しだけ動いていた。
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