水族館を楽しんだ後、二人は駐車場へ向かった。
詩帆は相当楽しかったのかまだクラゲや魚の話を涼平にしている。
涼平は詩帆がこんなにお喋りをしているのは初めて見た気がした。
そして、ひたすらお喋りをする詩帆に相槌を打ちながら、詩帆の事が愛おしくて仕方なかった。
涼平はエンジンをかけると詩帆に言う。
「次はいよいよ江ノ島に上陸ですー」
「やったー!」
詩帆も両手を上げながら楽しそうに叫んだ。
その後すぐに顔を赤らめると、恥ずかしそうな表情になった。
「照れなくていいよ、俺といる時は自然体の詩帆ちゃんでいればいいさ」
涼平が笑顔で言ったので、詩帆は頬を赤らめたまま小さく頷いた。
その時詩帆は思う。
涼平と一緒にいると、兄といた時のように素直な自分になれた。
詩帆は子供の頃から兄の航太といる時だけありのままの自分でいられた。
しかし兄がいなくなってからは、詩帆が素の自分でいられる場所が消えてしまった。
長男を亡くした両親の前で、詩帆はいつも気丈にふるまうしかなかった。
特に母は兄の死後、鬱状態になってしまったので父と詩帆で母を支える日々がしばらく続いた。
詩帆が兄の死を悲しむ余裕などなかった。
母がそんな状態だったので、せめて父には心配をかけないようにといつも感情を押さて生きてきた。
その影響か、一人暮らしを始めてもその癖は抜けず、いつも感情の起伏のない生活をしている。
だから友達と大騒ぎしたり何かにときめく事も皆無だった。
人とは常に距離を取り、これ以上自分が傷つかないようにとガードする。
だからいつも当たり障りのない付き合いしか出来ない。
とにかく詩帆は、感情の乱れを引き起こさないよう徹底していた。
しかし詩帆は今、素直に感情を表現する事が出来た。
自分でも不思議なくらい自然にだ。
涼平は兄のような安心感を与えてくれる。
まだ出会って間もないのに、なぜ涼平の傍にいるとこんなにも安らげるのだろうか?
詩帆はその答えを考えてみたが、答えは見つからなかった。
車はすぐに江の島へ着いた。
車を降りると涼平は詩帆に言った。
「ちょっと遅くなっちゃったけどそろそろメシでも食いますか」
詩帆は笑顔で頷くと、涼平と並んで歩き始めた。
店が建ち並ぶメイン通りで食事をするのだろうと思っていた詩帆は、涼平がメイン通りから逸れて右に曲がったので不思議に思
う。しかし涼平はそのまま狭い路地を進んで行った。
こんな所に店があるのだろうか? 詩帆がそう思っていると、突然暖簾をかけた古い建物が見えてきた。
そこはこじんまりした定食屋らしい。
店の入口にはメニューが書かれた看板が立てかけてあり、その日捕れた魚を使った刺身定食が人気のようだ。
涼平はその店の前で立ち止まると、詩帆に聞いた。
「ここでいいかな? この店は船を持ってるから新鮮な魚が食べられるんだけど、詩帆ちゃんはお魚は大丈夫?」
「私、お魚大好きです。新鮮なお刺身食べたいです」
涼平は「じゃあここにしよう」と言って暖簾をくぐって店へ入って行った。
店に入ると「いらっしゃいませ」と笑顔のおかみさんが迎え入れてくれる。
テーブル席が四つとカウンター席だけの、本当にこじんまりした店だった。
そしてテーブル席の二つは既に埋まっている。
二人は一番奥のテーブルに座ってメニューを開いた。
人気の刺身定食以外に、煮魚定食や丼物もあるようだ。
二人は迷わずおすすめの刺身定食にした。
おかみさんが温かいお茶を持って来てくれた時に注文する。
「この場所は普通の人は気づかないかもしれませんね」
「だな。俺も最初は知らなくてさ、大学生の頃に加納先輩に教えてもらったんだよ。それ以来、江ノ島近辺に来るといつもここ
で食べるんだ」
詩帆は頷きながらこんな話をする。
「私の父が釣り好きで、釣ってきた魚を母がよく料理してくれました。だから魚は大好きなんです。今はもう行っていません
が、以前は私も父と釣りに行ってたんですよ」
それを聞いた涼平はびっくりして「えっ?」と声を出す。
「マジで? 詩帆ちゃん釣りするの?」
「はい。大学生1~2年の頃までは父とよく行ってました。最後はショアジギングにはまっていて…」
それを聞いた涼平はさらに驚く。
「って事は、浜や堤防から?」
「はい。実家が藤沢市なんですが、父とよく行ったのは三浦半島の堤防、あとは平塚、大磯、少し足を伸ばして熱海や沼津あた
りにもよく行きました」
「え、で、どんなものを釣ったの?」
「小さいものはイワシとかアジ、カワハギ? あとはメバルとかの根魚と……一番大きいのはワラサですが」
涼平は驚き過ぎて口をポカンと開けている。
「すごいな、それガチだね!」
すると今度は詩帆が涼平に聞いた。
「夏樹さんは釣りはしないのですか?」
「俺は船釣りがメインだよ。シイラ狙いでたまにサーフィン仲間と行くんだ、船を貸し切りにしてね。今度行く時は詩帆ちゃん
も誘うよ」
それを聞いた詩帆は嬉しそうに「是非行きたいです」と言った。
「あ、でも、船釣りは船酔いとか大丈夫かなあ……」
詩帆が心配そうに言うと、
「朝、酔い止めを飲んでくれば大丈夫だよ。そっかー、詩帆ちゃん釣りやるのかぁー」
涼平はとても嬉しそうだった。
涼平は詩帆の意外な一面を知り驚いていた。
そして自分は詩帆について何も知らなかったのだと気付く。
自分が見ていたのは、詩帆のほんの一部分だけだったのだと。
今日詩帆と数時間過ごしてみて、自分の知らなかった詩帆がどんどん見えてくる。
その知らなかった部分を知る度に、もっともっと知りたいと思ってしまう。
恋というのは、こうして相手の知らない部分を一つずつ知っていく事なのだろうか?
涼平はそんな事を思った。
その時刺身定食が運ばれて来た。
ボリュームたっぷりの刺身定食には、マグロやアジ、太刀魚、クロダイやサザエ、そして生シラスも添えられていた。
詩帆は新鮮ですごく美味しいと嬉しそうに食べている。
テーブルの向こうに笑顔の詩帆がいるだけで、幸せな気持ちが溢れてくる。
ただ二人で食事をしているだけなのに、涼平からは自然と笑顔が溢れて心の中が満たされていくように感じていた。
もっと詩帆の事が知りたい。
彼女の色々な面を知りたい、知り尽くしたい…
涼平の中にはそんな欲望が湧き上がっていた。
コメント
2件
素の自分で居られる場所が出来そうですね、良かったね😸
その気持ちが恋なんですよ❤️ 涼平さんも詩帆ちゃんも恋してますね〜🥰😊💞 詩帆ちゃんは初恋かもしれないけど、涼平さんは菜々子さんと恋したんでは?菜々子さんとの気持ちと今とは違うのかな⁉️