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その日の午後、白群リゾートの担当者が一人で花屋を訪ねてきた。前に来た時のような、余裕を飾る連れも資料の束もない。灰色のコートの襟だけが不自然なくらいきちんとしていて、ここへ来る前に何度か言い方を選び直したことが見て取れた。
店の前では、エフチキアが退院祝いの花束を包装している。甘い名札の匂いに誘われた子どもがガラス越しに中を覗き、ハルミネは奥で祭り用の布を裁っていた。いつもの花屋の音が、そのまま盾みたいに積み重なっている。
「少し、お時間よろしいでしょうか」
担当者はハヤへ向かって頭を下げた。初めて、店主ではなくハヤの方を見て言った。
「はい」
「先日の件ですが、こちらとしても条件の見直しは可能です。店名の維持だけでなく、外装や接客についても、現場の裁量を広く」
途中まで聞いて、ハヤははさみの置き場をそろえた。母の花ばさみはまだ使ったばかりで、布の上に置いてある。黒い持ち手が、ひどく落ち着いて見えた。
担当者は続ける。
「あなたがたの魅力は理解しています。だからこそ、大きな枠組みの中で残した方が」
ハヤはようやく顔を上げた。
「残すだけでは、足りません」
担当者の言葉が止まる。
「前は、残れるならそれでいいと思いかけました。決めなくて済むし、楽になる気もしたので」
ハヤは自分の声が静かなことに少し驚いた。震えていない。
「でも、それだと、花屋の名前は残っても、ここで働く私たちは自分の名前を出せなくなります」
店の奥で、ハルミネの裁ちばさみが小さく止まる気配がした。
「自分で名乗れる場所でなければ、意味がありません」
言い終えると、山風が引き戸をわずかに鳴らした。通りの向こうから、焼き菓子の甘い匂いが流れて来る。アンネロスが新しい焼き上がりを運んでいるらしい。
担当者はしばらく黙り、やがて短く息をついた。
「はっきり、お答えいただいたと受け取ります」
「はい」
「分かりました」
彼はそれ以上押さなかった。去り際、店名の書かれた暖簾を一度だけ見上げてから、通りへ戻っていく。
ノイシュタットはずっと店先の鉢を並べ替えるふりをしていた。担当者が見えなくなった途端、こちらを振り向く。
「今の返答は見事だった。あまりに見事で、こちらの気障な出番が消失した」
「別に要りません」
「要るとも。人は時に、無駄な比喩でしか祝えない」
「じゃあ言わなくて大丈夫です」
そう返しながら、ハヤは少しだけ笑ってしまった。
オブラスが帳場から顔を上げる。
「断った以上、次は一年分の運営計画を自分たちで示す必要があります」
「分かっています」
「その返事なら十分です」
ハヤは母の花ばさみを布で拭いた。刃に午後の光が細く乗る。断ることは、扉を閉めることではなかった。自分たちで開ける扉を選び直すことだ。
ノイシュタットはまだ何か言いたそうにしていたが、結局、花鉢を抱え直して店先へ戻った。背中だけが少し、いつもより柔らかかった。
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