テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
十一月の本開催が近づくにつれ、花屋の閉店後はいつも誰かの残業場になった。伝票を書く音、包装紙を切る音、外で台車を引く音。夜の花屋は、昼よりむしろ人数が多い。
その晩も、帳場にはオブラスの試算表、作業台にはハルミネの布見本、椅子の背にはジョンナの読みかけの資料が置きっぱなしになっていた。けれど、閉店札を裏返したあと、皆が一度に外へ出た時間だけ、店の中は急に静かになる。
ハヤは売れ残ったスプレーマムの丈をそろえていた。ノイシュタットは配達表を見ながら、明日の流れを頭の中で組み直しているらしい。いつもの軽口がない。
「珍しいですね」
ハヤが先に言った。
「何が」
「静かです」
「沈黙にも準備が要る日がある」
その答えが少しだけ変で、ハヤは手を止めた。ノイシュタットは伝票を置き、作業台の向こうからこちらを見る。気取っているのに、逃げ道を探している目だった。
「ハヤ」
名前を呼ばれて、胸の奥が小さく鳴る。
「今のうちに言っておいた方がいいことがある」
「何ですか」
「本番が始まると、僕はまた妙な演出と段取りに埋まる。だから、その前に」
彼がそこまで言った時、裏口が勢いよく開いた。
「ハヤさん! これ、応募用紙どの箱に入れれば――」
飛び込んできたのはエフチキアだった。両腕に抱えているのは、告白実況中継の応募用紙の束である。その後ろからドゥシャンが顔を出し、さらにアンネロスが焼きたての試作品を掲げて続いた。
「ちょっと聞いて、実況の締めに甘い名札を景品にしたら絶対いいから」
「いやその前に、箱に“本気用”と“冗談用”を分けた方が」
「分けたら余計ややこしいです!」
静けさは、一瞬で粉々になった。
ノイシュタットは目を閉じ、天井を仰いだ。
「なぜ今なんだ」
「今しかないと思って!」とドゥシャンが胸を張る。
「その判断がだいたい火種なんです」とジョンナまで資料を抱えて入ってきた。
店の中はたちまち夜の会議場へ戻る。告白実況中継の応募箱、匿名希望札、事前確認の導線、読み上げ担当の位置。皆が一斉に話し始め、ノイシュタットの“今のうちに言っておくこと”は、紙の山の下へ押しやられた。
ハヤは応募箱へ紙を分けながら、つい口元をゆるめた。
「続き、消えましたね」
「消えていない。埋まっただけだ」
「同じです」
「いや、まったく違う。発掘可能だ」
その返しに、アンネロスが大笑いする。
「埋まった告白なんて、掘り出すころには熟成してるわよ」
「それはそれで困ります」
ノイシュタットは本気で困った顔をした。
ハヤはその顔を見て、少しだけ察してしまう。何を言おうとしていたのか、言葉までは分からない。それでも、自分の名前が呼ばれた時の声の温度は、もう前と違っていた。
店じゅうに紙の擦れる音と笑い声が満ちる。仕事の山場で、恋はきれいに進んではくれない。けれど、進めないままでも、同じ場所で働く時間は続いていく。
4
31
1,630
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!