翌朝、よはく探偵社はいつも通りだった。
真琴が一番に来て、窓を開ける。
澪がポットに水を入れ、玲は無言で資料を広げる。
燈は少し遅れて、欠伸混じりにドアを閉めた。
「……平和だな」
燈が言う。
「何を期待してるの」
真琴はコーヒーを淹れながら返す。
「昨日あんだけ意味深なこと言われたあとでさ。
今日も何も起きないの、逆に気持ち悪くね?」
玲が資料から目を上げずに言った。
「“何も起きない”状態が続くこと自体が、状態変化です」
「はいはい理屈」
燈はソファに倒れ込む。
澪は、昨日のファイルをそっと棚に戻した。
奥でも手前でもない、微妙な位置。
「……あの事故」
ぽつり、と言う。
「続報、出てません」
「出ないでしょ」
真琴はカップを持ったまま肩をすくめる。
「事故扱いで終わってるんだから」
玲が静かに補足する。
「終わっている“こと”が、更新されていない」
燈が顔をしかめる。
「言い方が嫌だ」
午前中は、依頼も来なかった。
電話も鳴らない。
ただ時間だけが、普通に流れていく。
真琴はふと、昨日の木津の言葉を思い出す。
――端が見えないくらい、広い。
それなのに、今見える範囲には、何もない。
昼前。
澪が、コピー機の前で手を止めた。
「……これ」
玲が顔を上げる。
「何か気づきましたか」
「資料の番号」
真琴と燈も近づく。
澪は、事故資料の端を指差した。
「警察内部の管理番号、通常より一桁少ないです」
燈が首を傾げる。
「少ないと何が違う」
「登録の段階で、枝分かれしてない」
玲が続ける。
「本来なら、関連記録が派生する形式です」
真琴は眉を上げた。
「でも、してない?」
「してない“形”で残ってます」
沈黙。
燈が言う。
「……またそれかよ」
「今回は言葉を変える」
玲は淡々と。
「不自然ではない。
ただ、“意図が見える”」
真琴は、深く息を吸った。
「昨日の忠告の直後に、これか」
「偶然とは言い切れません」
「でも、証拠でもない」
燈が腕を組む。
「要するに、今は何もできない」
「うん」
真琴は頷いた。
「だから今日は、何もしない」
燈が目を見開く。
「マジ?」
「マジ」
真琴は資料を棚に戻す。
「今は、向こうが“何も起こさない”って選んでる」
「選んでる?」
「そう」
真琴は、窓の外を見る。
「だったら、こっちも待つ」
玲が静かに言う。
「待つ、も行動です」
澪は、安心したように小さく息を吐いた。
午後も、結局何も起きなかった。
木津からの連絡もない。
警察の動きもない。
夕方、燈がぼやく。
「一番怖いやつだな、これ」
「そう?」
真琴は笑った。
「私は、分かりやすくて嫌いじゃない」
「どこが」
「向こうが“触らせない”って決めてるってことは」
一拍置いて、続ける。
「触られたくない場所が、ちゃんとあるってこと」
その夜、木津は一人で、車の中にいた。
エンジンはかけていない。
ハンドルに手を置いたまま、前を見ている。
ポケットの中で、携帯が震えた。
――上からの確認。
短い通知。
木津は、画面を伏せる。
「……早いな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
よはく探偵社の灯りが、遠くに見えた。
あそこは、まだ何も知らない。
知らないまま、待っている。
木津は、深く息を吐いた。
「忠告で止まるなら、楽だったんだが」
車を発進させる。
夜の中へ、静かに溶けていった。
何も起きなかった一日が、終わる。
だがそれは、
“安全だった”一日ではなかった。
ただ、
まだ使われていないだけだった。






