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夜は終わらなかった。
遥が「……行くなよ」と日下部に言ってしまった、そのたった一言は、家の中で“許されない感情”として処理された。
怜央菜は静かに微笑み、沙耶香は無言のまま物差しを机に置き、晃司は低く「甘えさせすぎたな」と呟き、颯馬はずっと喉の奥で笑っていた。
そして、夜が始まった。
――痛みを与える手段は家族それぞれが違う。
怜央菜は淡々と、“理由”を突きつけながら指先で遥を押しつける。
沙耶香は何も言わず、ただ頬を叩くタイミングを測り続ける。
晃司は、背中を掴んで床に押し倒しながら、「男なら黙れ」と同じ言葉を繰り返す。
颯馬は至近距離で、「離れんなよ、って誰に言ったんだよ。なあ?」と耳元で囁き続ける。
声を出せば長引く。
泣けば“甘え”と判断されて処罰が増える。
黙れば“反抗”とみなされる。
逃げ道のない夜は、遥の身体のどこかで必ず折れる場所を探すように、ゆっくり、確実に深まっていった。
耐えた。
ただ、それだけが彼に許された唯一の選択肢だった。
夜が明けるころ、遥の表情からは“何もない”のではなく、
“ありすぎて整理できない”空虚が滲んでいた。
玄関を出た瞬間、わずかに脚が震えた。
歩けないほどではない。
でも、昨日までの「痛いけど動ける」とは違った。
体のどこが壊れているのか、自分でも判断がつかないほど深く“沈んで”いた。
学校に向かう途中、冬の風に当たるたび、肌のあちこちが勝手に跳ねた。
夜の手がまだ離れてないようで、触れられている感覚が消えなかった。
校門をくぐるころ、遥は完全に“いつもの仮面”に戻っていた。
戻した、のではなく――“戻らざるを得なかった”。
教室に入っても、誰も気づかない。
頬の赤みも、歩き方の不自然さも、“隠してると思われること”さえ許されないから、全て曖昧に溶かした。
ただひとつだけ違っていたのは、
日下部の姿を見た瞬間に身体が一度だけ止まったこと。
ほんの一秒。
誰にも悟られないほどの短い間。
それでも止まった。
日下部はすぐに気づいた。
気づいたうえで、近づくタイミングを一瞬だけ迷った。
昨日、あの家で「もう来なくていい」と言われた声が、まだ耳に残っていたからだ。
だが、それ以上に――
目の前の遥が、立っているだけで痛々しかった。
「……遥」
呼んだ。
声が震えているのを自分でも理解していた。
遥はゆっくりこちらを向いた。
表情はいつもの無表情。
だが、瞳の奥に何かが沈んでいる。
息を吸うだけで痛むような、言葉にならない「昨夜の跡」が見えた。
「……なんだよ」
声は普通。
普段と変わらない、素っ気ない調子。
なのに、その“普通”が不自然だった。
日下部は喉の奥に、焼けるような焦りが引っかかった。
「……昨日、家……」
言いかけた瞬間、遥の目が鋭く揺れた。
触れるな、と言われたようだった。
それ以上踏み込めば、遥の中の何かが崩れるとわかるほどの拒絶。
「――言うな」
短い言葉だった。
だがその声は、弱っているから優しくなったのではない。
弱っているから“守りに入った声”だった。
自分がまた傷つけられることより、
日下部が自分のせいで踏み込んでしまうことを恐れている声だった。
日下部は息を飲んだ。
「……遥、おまえ……」
遥は視線を逸らし、静かに歩き出した。
背中を見ているだけで胸が締め付けられた。
逃げているのではない。
“これ以上日下部を巻き込まないように”距離を置いている歩き方だった。
そして――
その数時間後、遥は保健室にもたどり着けず、廊下で崩れるように倒れた。
教室中が「あーまた?」と笑った。
教師は無表情で、「自己管理できてないからだろ」と吐いた。
誰ひとり、危険を感じなかった。
ただひとり、日下部だけが走った。
呼吸が壊れそうなほど。
倒れた遥が、痛む身体のままで日下部の袖を掴んだ。
昨日と同じ、無意識の動作。
「……ごめん」
遥は、謝る必要のないことをまた自分の責任だと思っていた。
家に刷り込まれた“罪”の形のまま。
日下部は膝から崩れそうになった。
自分が壊れそうだった。