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保健室のベッドに横たわった遥は、天井を見ていた。
目を閉じれば昨夜の光景が浮かぶのを知っているから、あえて何も見ない“白”に逃げていた。
ベッド脇には、立ったままのまま動かない日下部。
「……遥」
返事は来ない。
呼吸だけが、痛む肋骨に合わせてわずかに震えていた。
「昨日……何された?」
その言葉に、遥の肩が“びく”と跳ねた。
殴られたわけでもないのに、その小さな反応が、すべてを物語っていた。
遥は、ゆっくり顔をそむけた。
「……言ったろ。触んなって」
「触ってねぇ。聞いてんだろ」
「――だから、聞くなよ」
声はかすれていた。
怯えでも拒絶でもない。“これ以上おまえを巻き込みたくない”防御の声。
日下部は一歩だけ近づいた。
「巻き込まれてるのは、もう同じだろ」
「……違う。おまえは違う。
俺みたいなののために……おまえまで壊れんなよ」
吐き出すような低い声。
言葉の端々に、昨夜の痛みが残っていた。
沈黙。
保健室の時計だけが淡々と鳴る。
日下部は、ベッドの端に手を置いた。
「遥。俺、昨日の……あの家の言葉、忘れてねぇぞ」
遥は瞬きすら止めた。
怜央菜の声を思い出したのだ。
――“あなたが来ると、あの子が甘えるから困るの”
家族全員が見ている中、遥を“問題児”にしたあの一言。
「……忘れろよ」
「忘れられるわけねぇだろ。俺、あれ聞いて……
なんでおまえが悪者みたいになってんのかわかんなかった」
遥は唇を噛んだ。
噛むしかなかった。
泣けば弱い。
声を荒げれば家を思い出す。
黙れば“肯定”になる。
「……俺さ」
眉間に皺を寄せたまま、遥が言った。
「おまえに“行くな”なんて……言った覚えねぇよ」
「言っただろ。玄関で――」
「……記憶ねぇ」
それが、“家に消された記憶”なのか、
“覚えていたくない記憶”なのか、どちらなのかは誰にも分からない。
日下部は舌打ちした。
苛立ちではなく、悔しさの音。
「……マジで、限界だわ。遥」
「限界なら……離れろよ」
「離れねぇから言ってんだろ」
遥の喉が一瞬だけ震えた。
その震えの意味を、日下部は理解できなかった。
理解できたら、もっと痛かっただろう。
保健室のドアが開く。
颯馬だった。
制服が乱れていない完璧な姿で、淡々とした歩き方。
目だけが笑っていた。
「あ。兄貴、倒れたってほんとだったんだ」
日下部の空気が刺すように変わった。
「てめぇ、なんでここに――」
颯馬は日下部を素通りし、遥の前に立った。
しゃがみこんで、兄の顔を覗き込んだ。
「ねえ。家での“反省”足りなかった?」
遥の指がシーツを握りしめる。
声を出さないよう必死に呼吸を抑えた。
颯馬は笑う。
「……また夜、ちゃんと教えないとね?」
その瞬間、日下部が颯馬の襟を掴んだ。
「殺すぞ、おまえ」
颯馬は眉ひとつ動かさない。
むしろ、余裕の笑みを深めた。
「先生呼ぼっか?
“日下部くんがいきなり暴れました”って言えば……信じるよね?」
日下部の手が震えた。
殴れない。
殴った瞬間、罠にはまる。
遥が息を吐いた。
「……やめろ。日下部……」
弱い声ではなかった。
“守ろうとしてる声”だった。
その声が、いちばん胸に刺さった。
颯馬は満足したように微笑んだ。
「じゃ、帰ろ。兄貴」
その言葉は“帰宅命令”ではなく、“処刑宣言”だった。
遥は目を閉じた。
拒否しても無駄だと知っている閉じ方だった。
日下部は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
無力さを喉の奥で噛み殺すように。