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助けられた、という事実だけが残っていた。理由も、過程も、もうどうでもよかった。
屋上から引き戻されたこと。
手首を掴まれた感触。
名前を呼ばれた声。
全部、ちゃんと覚えている。
それなのに――
胸の奥は、何一つ軽くなっていなかった。
(……変だな)
遥は、夜の布団の中でそう思った。
身体は疲れているのに、眠気が来ない。
天井を見つめたまま、呼吸だけが浅く続く。
助けられたなら、
少しは楽になってもいいはずだ。
少なくとも、
「終わらせなくてよかった」と思えるはずだ。
(……思えてない)
その事実が、遅れて刺さる。
日下部は来た。
止めた。
連れて行った。
間違いなく、“助けた”。
でも――
助けられた後の世界は、何も変わっていない。
家は、同じだ。
学校も、同じだ。
空気も、視線も、扱いも。
変わったのは、
「もう一度やったら、次は誰かが止める」という前提だけ。
(……それって)
遥は、喉の奥で言葉を飲み込む。
それは救いじゃない。
ただの、延期だ。
苦しい状態はそのままで、
“終わらせる選択肢”だけを奪われた。
生きろとも言われていない。
楽になれとも言われていない。
ただ、
「今はやるな」と言われただけ。
(……ずるい)
そう思った瞬間、
自分がそんなことを考えているのが、急に恥ずかしくなる。
助けてくれた人に対して、
こんなことを思うなんて。
(最低だ)
日下部は、悪くない。
止めたのは、正しい。
それは分かっている。
頭では、ちゃんと。
でも、身体は正直だった。
息は浅いまま。
胸の奥の重さも、消えていない。
それどころか――
「次は、あいつがいるかどうか」を
無意識に考えている自分に気づいてしまった。
(……あ)
それが、いちばんきつかった。
救われていないのに、
“救われた前提”で生きることを求められている。
苦しいと言えば、
――そう思われる気がした。
「助けてもらったじゃないか」と。
終わりたいと言えば、
きっと、こうなる。
「もう一度、あいつを傷つけるのか」と。
(……逃げ道が、なくなった)
助けられたはずなのに、
世界は少しも優しくなっていない。
ただ、
自分の中にだけ、新しい鎖が増えただけだった。
それでも。
日下部の顔が浮かぶと、
完全に切り捨てることもできない。
(……助けてくれたのは、本当だから)
感謝はある。
安心も、少しだけある。
でも、
それと同時に――
(……まだ、地獄の中だ)
その自覚だけが、
やけに静かに、確かに残った。
遥は、目を閉じる。
助けられた。
でも、救われていない。
その矛盾を抱えたまま、
また朝が来るのを待つしかなかった。