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「……日下部」
その名を呼ぶ遥の声には、どこか硬さがあった。
笑っていない声。飾らない声。
 教室の空気は薄くなっていた。
誰もいない、放課後の静寂。机の並ぶ場所で、ただふたりだけが立ち尽くしている。
 遥は、ゆっくりと歩いた。距離を詰める。
そして、日下部の前で立ち止まり、顔を上げた。
 「おれさ。たぶん、……そういうことしか、知らないんだと思う」
 目は伏せていなかった。正面から日下部を見ていた。
感情は、あった。けれど、それをどう扱えばいいかわからないような、不器用なまなざしだった。
 「セックスすれば、価値が出ると思ってた。……必要としてもらえるとか、許されるとか。そういうの」
 沈黙。
 「“かわいそう”でも、“汚れてる”でも、いいから。……ふれてくれれば、それでよかった」
 日下部は、何も言わなかった。
 遥の手が、そっと日下部のシャツの裾をつかむ。
 「……ふつうに誰かと“並ぶ”の、わかんない。
笑い合ったり、待ち合わせしたり、……アイス分け合ったり。……そんなの、ずっと、わかんない」
 言葉は、途切れ途切れだった。
 「そういうの、全部、嘘みたいで。
だからたぶん、おれ……壊すのが先だった。試すのが、先だった」
 遥の声は震えていたわけじゃない。ただ、重かった。
自分で口にするたび、何かを吐き出していくような痛みがそこにあった。
 「でも、おまえ……触んないし、怒んないし、逃げないし……意味わかんない」
 沈黙の中、遥の指先が、ゆっくりと日下部の服から離れた。
 「こんなの、知らない。……もう、わかんないんだよ。どうしたらいいのか」
 そのとき、日下部がそっと手を伸ばした。
でも、抱き寄せるでも、撫でるでもなかった。
 ただ、遥の肩の上に、静かに手を置いた。
触れるか触れないかの力で。
 「それでいいじゃん、今は」
 たったそれだけ。
 遥の目が、少し見開かれた。
 (……いま、なにが、起きてるんだ)
 誰かに“欲望”で触れられなかったことなんて、なかった。
けれど、日下部の手には、それがなかった。
 ただ、静かで、居場所のようだった。
 遥は、その感覚に戸惑っていた。
これが“優しさ”なら、優しさはもっと早く壊れた。
これが“好意”なら、好意は痛みを伴うはずだった。
 でも、日下部の言葉も、手も、そこに“何かを奪う意図”がなかった。
 遥の中で、音もなく崩れ落ちていくものがあった。
 「……わかんねぇ」
 そう呟いた遥の目に、涙はなかった。
でも、確かに何かが、変わり始めていた。