テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
彼女の後ろ姿が見えなくなって初めて、私は深呼吸をした。唇を拭い、今のキスは単なるアクシデントだと言い聞かせながらも、泣きたいような気分だった。
「諒ちゃん、ひどいよ。いったいなんなの。他にもっとやりようがあったんじゃないの?私、ファーストキスだったのに、こんなことで……」
言っているうちに涙が滲んできた。
そんな私の頭を諒は優しく撫でる。
「ごめん。つまんないことに巻き込んでしまったな」
私はぐすっと鼻をすすった。
「本当よ。こういうことはもっとうまくやってよ」
「そうだよな。ほんと、ごめん。だけどこれでやっと、あの人も諦めてくれたはずだ。瑞月のおかげだよ。付き合ってるふりをしてくれて、ありがとな」
「そんな言葉だけじゃ、許せない」
「ごめんよ。とにかくその荷物、貸せよ。ずっと持ちっぱなしで、手が疲れただろ」
「……うん。お願い」
私はうつむいたまま諒に荷物を渡した。どんな顔で彼を見たらいいのか分からない。
それに気づいているのかいないのか、諒は歩き出しながら、今の出来事とはまったく無関係なことを口にした。
「今日の晩飯は、何を食べさせてくれるの?」
私は自分の足元を見たまま答えた。
「トマトパスタとかどうかなって思って……」
「うまそうだな」
諒の少し後ろを着いて歩きながら、だんだんと腹立たしくなってくる。私だけが動揺しているのはどう考えても不公平すぎるし、そう簡単に「なかったこと」になどできない。私は彼の背中に向かって言った。
「こんな形で諒ちゃんにファーストキスを奪われたこと、やっぱり許せない」
「本当にごめん。……どうしたら許してくれる?」
振り返って私を見る諒は、しゅんとしていた。
その姿に子どもの頃のことを思い出した。何が原因だったのかは覚えていないが、その時私は諒に対してひどく腹をたてて言い放った。
『諒ちゃんとはもう喋らない!』
その後何日か彼を無視し続けた。しかし最後にはお菓子か何かでごまかされ、あっさりと許してしまった。もともとたいした理由ではなかったのだろう。
そんな懐かしい思い出のおかげか、腹立ちは少し収まり、同時に冷静になる。派手なあの女性が諒の彼女になるようなことがなくて本当に良かった、これで当面は彼も静かに過ごせるはずと安心した。
しかし、それとこれとは別である。ペナルティの一つでも与えないことには気が済まない。そこで思いついたのは、恐らく諒にとっては最大最悪の嫌がらせ。これで私の溜飲もだいぶ下がるというものだ。
「今日から二か月の間、諒ちゃんが大嫌いなニンジンを毎回出すことにする。それ、絶対に残さないで食べること。そうしたら許してあげる」
「えっ……二か月も……」
諒の顔が歪んだ。
最近は、幼馴染たちと夕食を共にするのは週に二回。多い時には三回ほどだ。毎回となれば結構な頻度となる。
「嫌なら、もうご飯作りに来ない。もし栞からその理由を聞かれたら、私、素直に言うよ。そしたら諒ちゃん恨まれるかもね。あぁ、その時は、栞にだけご飯作ればいいのよね」
我ながら意地悪だとは思う。本当は半分以上許してはいたが、私が受けたショックの大きさを思い知らせてやりたかった。
「分かったよ」
諒は観念したように言った。
「絶交されるよりましだ。それで許してもらえるんなら、頑張って食べるよ」
「それでは、毎回ニンジンサラダやニンジンの煮物、ゴロゴロニンジン入りカレー、その他諸々ニンジン料理が並びます。そのつもりで」
「できれば食べやすいように頼むよ……」
諒は肩を落としてため息をついた。
その様子を見て、私はようやく頬を緩めた。
彼と顔を会わせるのは少し気まずかったが、それ以降もそれまで通り二人の部屋へ遊びに行き、頼まれれば夕ご飯を作って振舞った。そのテーブルに毎回必ず何かしらのニンジン料理が並んだのは、先の宣言通りだ。
それが何度か続いたある日の夕食の席で、栞がテーブルの上を眺めて不思議そうに首を傾げた。
「最近よくニンジンが出てくるよね。美味しいけど」
私はちらっと諒の顔を見てから、栞ににこっと笑いかけた。
「ニンジンって体にいいでしょ?それに、諒ちゃんももういい大人なんだから、いつまでも子どもみたいなことを言っていないで、克服した方がいいかなって思ったのよ」
私のもっともらしい言葉を、諒は苦々しい顔で聞いている。あの日以来、彼は私との約束通り、ニンジンを頑張って食べている。ちなみに今日の一品はニンジンラペ。それをちびちびと口に運んでいた。
乙女の唇を無理に奪った罰なのだからと、私は彼の様子に大いに満足していた。
食後、食器を片づけているところに、諒がやって来た。栞は今、風呂掃除に行っている。
「瑞月って、結構性格悪かったんだな」
「絶交されないだけマシだって、諒ちゃん言ってたじゃない」
私はぷいっと顔を背けた。
「それもそうだな。これくらいで済んで良かったと思わないとな」
苦笑を浮かべる諒に、私はふと思い出して訊ねた。
「それで、あの後あの人は?」
「あぁ、おかげでぱったり。ほんと、助かったよ」
「ねぇ、一つ気になってることがあるんだけど」
「何?」
「私と諒ちゃんがつき合ってるっていうあの狂言話、あの人以外にも知ってる人はいるのかな」
「回り回って、何人かに話が流れてしまったけど、相手が誰かまではみんな知らないよ。会わせろって言われても適当にはぐらかしてるし、大学も違うから、瑞月に迷惑がかかることはないと思う。ま、俺にとってはいい虫よけになったよ」
「それならいいけど……」
私は諒の顔をしげしげと見た。
「諒ちゃんに本当に彼女がいれば良かったのにね。そしたら今回みたいに、私で間に合わせることはなかったのに」
「間に合わせるって……」
諒は脱力したように肩を落とした。
「俺は……」
彼が何かを言いかけた時、栞が戻って来た。
「お風呂、準備できたよ。瑞月、たまには先に入ったら?」
「いいの?」
「もちろん。お兄ちゃんはいつも通り、最後でいいよね」
「それでいい」
諒の口から大きなため息がこぼれた。