呼び出し音がしばらく続いたあと、男性の声が聞こえた。
「栞か? こんな時間にどうした?」
「お父さん、あのね、今、病院にいるの」
「病院に? どうしたんだ? 大丈夫なのか?」
そこで、直也が電話を代わるという意志表示をしたので、栞は携帯を手渡した。
「もしもし、突然のお電話失礼します。私、世田谷の『貝塚こころのクリニック』の医師、貝塚と申します……」
そこからしばらく、直也は説明を続けた。
直也は栞の父親に、今日、栞が病院に駆け込んできて倒れたこと、症状が過換気症候群だったこと、この発作が三回目であることを伝えた。
直也は、この症状がストレスによって引き起こされることを丁寧に説明したあと、栞の置かれている状況について話し始めた。
友人関係の問題や志望校の件については、要点を簡潔に伝えただけで、男子に告白されたという細かい話は省略した。
携帯越しに時折聞こえてくる父親の低い声には、遠く離れた場所から娘を心配する心情が滲んでいた。
栞は、冷静に父親と話す直也の様子をじっと見つめていた。
直也は、栞が父親に知られたくないと思っている内容には触れず、必要な情報だけを要領よくまとめて説明した。
その話し方はとても丁寧で、父親が理解しやすいよう配慮されているのが伝わってくる。
彼の話し方には、知性が滲み出ていた。
医者になるくらいだから、それも当然なのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、どうやら直也と父親の会話が一段落したようだった。
直也は最後に父親へ挨拶を済ませると、栞に携帯を渡した。
栞はすぐに携帯を耳に当てる。
「栞、先生から聞いたよ。本当に大変だったな。父さん、何も気づいてやれなくてごめん。大学はお前の好きな大学を受けなさい。受験が終わるまで、このことは母さんと華子には内緒にしておこう」
「お父さん、本当にいいの? もし私が受かったら、家族がぎくしゃくしちゃうよ?」
「そんなことは心配しなくていい。もし合格したらアパートを借りてやるから、一人暮らしをして思う存分勉強に専念しなさい」
父からの思いがけない提案を聞いた栞は、再び涙をぽろぽろとこぼし始めた。
直也は栞を優しく見つめながら、またティッシュの箱を差し出す。
それに気づいた栞は、ペコリとお辞儀をしながら話を続けた。
「お父さん、アパートなんて借りたらお金がかかっちゃうよ?」
「ハハハ、そんなことは気にするな。父さんはこれでも一応銀行の支店長だからな!」
父はそう言って朗らかに笑った。
栞は涙を拭いながら、静かに言った。
「ありがとう、お父さん……本当にありがとう」
「いろいろと苦労をかけてすまなかったな、栞! まずはしっかり勉強して合格しないとな! ただ、無理だけはするなよ」
「うん、わかった、ありがとう。じゃあね……」
電話を切った栞は、もう一度涙を拭いてから直也に向かって言った。
「ありがとうございました」
「大学に受かったら、一人暮らしができるみたいで良かったね」
「はい! 行きたい大学に行けるかもと思ったら、なんとか頑張れそうです。友達とのことも、気にしないようにします」
「それはいい考えだ! それと、これは僕からの個人的なアドバイスだけど、合わない友達からは離れるのも一つの手だよ。『逃げるが勝ち』っていうことわざ、知ってる?」
「逃げるが勝ち?」
「そう。好きな男を取られそうになったからって急に無視してくる人は、実は付き合わない方がいい種類の人間かもしれない。真の友達なら、親友が幸せになることを喜んでくれるはずだよね? だから、時には『逃げるが勝ち』で、逃げてもいいんだよ。もしかしたら、君にふさわしい友達は、もっと別の場所にいるかもしれないしね」
直也はそう言いながら、穏やかな笑みを浮かべた。
直也のアドバイスを聞きながら、栞はある人物を思い出した。
クラスで孤立している女子が一人いる。
彼女も以前、他のグループからはじき出された一人だった。
彼女はいつも一人で読書をしていた。
栞も本が好きだったので、彼女に話しかけてみたいと思ったことが何度かあったが、その勇気をなかなか持てずにいた。
(今度話しかけてみようかな……)
そう思うと、栞の心に少し前向きな気持ちが芽生えた。
「じゃあ、一応薬は出しておくけど、これはおまじないみたいな感じだから、本当にしんどい時だけ飲むようにしてね」
「わかりました」
「それと、念のため来週もう一度来てもらえるかな?」
「はい」
「それと、これ…….」
直也はそう言いながら、真新しい本を栞に渡した。
「?」
「この本は、君みたいにおとなしくて、自分の意見を言うのが苦手な人向けに書かれたものなんだ。いろんな対処法が載っているから、きっと参考になると思うよ。うちに何冊もあるから、それは君に差し上げます」
栞は本を受け取り、表紙をじっと見つめた。
その本の表紙にはこう書かれてあった。
『ズルい人からは逃げなさい~優しいあなたはズルい人から搾取される~著者・kai』
本のタイトルは、先ほど直也が言っていた『逃げるが勝ち』とどこか似ているような気がした。
栞はこれまでに、心理学や自己啓発本を何冊も読んできたが、この著者の本は初めて目にするものだった。
興味をそそられた栞は、帰ったらすぐに読んでみようと思った。
「ありがとうございます」
栞はお礼を言い、その本を鞄の中へしまった。
受付で来週の予約を入れ、会計を済ませたあと、処方箋を受け取った。
対応してくれたのは、栞が倒れた際に真っ先に駆け付けてくれた女性だった。
彼女は母に似た優しい声の持ち主で、倒れた時は朦朧としていて顔を見る余裕がなかったが、今改めて目を向けると、40代くらいの綺麗で優しそうな女性だった。
胸元の名札には『園田(そのだ)』と書かれている。
園田は少し元気が戻った栞を見て、ニコニコしながら「元気になって良かったわ」と声をかけてくれた。
その笑顔や優しい雰囲気は、さらに母に似ているような気がした。
栞は「ありがとうございました」と丁寧に礼を述べて、クリニックを出た。
鞄の中にしまった本の存在が、栞の心に小さな希望の光を灯していた。
コメント
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直也先生がお父さんに話をしてくれて、そしてお父さんも理解のある人で 本当に良かった....😌💓 これで志望する大学を受験することができるね~.+:。 ヾ(◎´∀`◎)ノ 。:+.ヤッター♪ 受験頑張ってね✊‼️📝👓️ そして 先生からいただいた本は、きっとこれから栞ちゃんを励まし 守ってくれることでしょう....🍀✨
逃げるが勝ち。 確かにそう。 無理することはないし、人に合わせることもない。 自分がしたい事をしたら良いと思うよ😊
精神安定剤がわりの薬は強いですよ‼️ 私も震災後ずっと飲んでます。 持ってます😊 栞ちゃん、お守りに頑張って‼️