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夜の空気は、雨が降ったあとのようにしっとりと冷たかった。塾帰りの隼人は、駅から自転車で帰る途中、遠くに赤い光が瞬くのを見つけた。サイレンの音が近づいてくる。角を曲がると、大地の家の前に救急車が止まっていた。
胸がざわつく。自転車を止め、門扉の向こうを覗き込むと、玄関先で大地が靴をつっかけたまま立っていた。制服のまま、額に汗がにじんでいる。
「大地!」
思わず声が出た。大地は驚いた顔をして、すぐに小さく手を振った。
「……ばあちゃんが、ちょっと。急に胸が苦しいって」
声は落ち着いていたが、瞳の奥がかすかに揺れている。
「俺、手伝う」
隼人は返事を待たず玄関に駆け寄った。担架が運ばれ、ストレッチャーの上で苦しそうに目を閉じている老女。
「付き添いは?」
救急隊員が問いかける。
「僕が行きます!」
大地が答える。迷いはなかった。
隼人も自然に口を開いた。
「俺も一緒に行きます」
隊員は短くうなずき、二人は救急車に乗り込んだ。
サイレンが夜を切り裂く。狭い車内、酸素マスクの音だけが規則正しく響く。大地は祖母の手を握り、無言で祈るようにまぶたを伏せていた。隼人はただその横顔を見つめていた。
病院に着き、処置室へ運ばれる。待合室は蛍光灯の白い光がやけに冷たく、二人だけが取り残された。自販機の前に立った隼人は、温かい缶コーヒーを二つ買い、ひとつを差し出す。
「ありがとう」
小さく受け取る大地の手は、少し冷えていた。
沈黙がしばらく続いたあと、隼人が口を開く。
「……連絡、した方がいいんじゃないか。お父さんとか、お母さんに」
大地は視線を落としたまま、缶を握りしめる。
「……母ちゃんは、もういないんだ」
声は驚くほど静かだった。
隼人は息をのむ。言葉が見つからない。
「父ちゃんはね、どこにいるのか、わからない」
かすかな笑みを浮かべようとしたが、それはすぐに消えた。
「だから、俺がやるしかないんだ。ばあちゃんのことも、家のことも」
隼人は缶コーヒーを握りしめながら、心の中で何かが崩れる音を聞いた。いつも明るくて、冗談ばかり言って、空気を軽くしてくれる大地。その背後にこんな孤独があったなんて。
「……ごめん」
やっと絞り出した言葉だった。
「隼人が謝ることじゃないよ」
大地はようやく顔を上げ、わずかに笑った。
「ありがとう、いてくれて」
その笑顔は、強さと寂しさが入り混じっていて、隼人は胸の奥が熱くなるのを感じた。
窓の外では、夜が深まっていく。白い蛍光灯の下、二人の影が並んで長く伸びていた。