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放課後、廊下のざわめきが薄れていくころ、相談室の扉が控えめに叩かれた。返事をすると、躊躇いがちに扉が開く。
入ってきたのは、制服の肩が少しだけ落ちて見える生徒だった。顔色は悪くないのに、どこか“力の抜けた影”をまとっている。
「……あの、ちょっと、いいですか」
その声には、張りついた明るさがあった。無理に保とうとしている均衡のような、危うい響き。
日下部は手元の資料を閉じて、椅子を示す。
「どうぞ」
生徒は椅子に座ると、しばらく指先をいじりながら黙り込んでいた。言葉を探しているというより、何を話していいのか自分でも分からないような沈黙だ。
「……最近さ、家に帰ると……なんか、急に疲れて動けなくなるんです」
ようやく絞り出すように言う。
日下部は頷き、急かさずに続きを待った。
「学校にいるときは、まだ普通なんですよ。友達とも話せるし、授業もまあ……受けられるし。でも、家の玄関入った瞬間に、体が重くなるっていうか……」
言葉を重ねるほど、その表情は苦しげになっていく。
「そのまま床に座り込んで……気づいたら一時間くらい動けないこともあって。宿題しなきゃ、とか思うんですけど、体がついてこないんです。サボりって言われたら、それまでなんですけど……」
「サボりじゃない」
日下部は静かに遮った。責める調子は一切ない。ただ、生徒の疲労に触れた指先をそっと包むような声音だった。
「外で気を張ってる時間が長かったら、帰った瞬間に体が“もう無理”って言うこともある。むしろ、頑張ってる証拠だ」
生徒はうつむき、膝の上で手を握りしめる。
「でも……みんな普通にやってるじゃないですか。家に帰ってもちゃんと動いて、宿題やったり、ご飯手伝ったり。自分だけ、帰った途端に壊れたみたいになるのが……情けなくて」
「情けなくなんてない」
日下部の声は、低いがやわらかい。
「お前は“外でちゃんとしよう”って、ずっと踏ん張ってきたんだろ。誰にも見えないところで。それなら、家で電池切れになるのも自然なことだ」
「……自然、なんですか」
「ああ。心と体の反応として、当たり前。むしろ、限界を無視して走り続けてたら危ない」
生徒は、ようやく顔を上げる。その目には、安堵と戸惑いが入り混じっていた。
「……こんな話、笑われるかと思ってました」
「笑わない。そんな暇ないくらい、大事な話だ」
その言い方は淡々としているのに、変に胸に刺さる“優しさの重み”がある。
慰めようとしているのではない。ただ、事実として肯定してくれる——日下部には、そういう不器用で誠実なところがある。
「とりあえず。家で倒れ込む前に、ワンクッション置いていい。好きな飲み物を一口だけ飲むとか、靴を脱いだら深呼吸ひとつするとか。すぐ動けなくてもいいから、流れを自分で作ってあげる感じ」
「……そんなので変わりますか」
「すぐには変わらない。でも、“動けなかった自分を責めない”っていう練習にはなる」
生徒は少しだけ笑った。それは無理に作った笑顔ではなく、力の抜けた、ふっとこぼれたものだった。
「……なんか、ちょっと楽になりました」
「それでいい。今日は、それだけで十分」
そう言った日下部の横顔には、押しつけがましさも慰めの芝居もない。
ただ、“そこに居る”という確かな温度だけがあった。