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夜の相談室には、時計の針の音しか響いていなかった。
雨の匂いが少しだけ残っていて、誰かがさっきまで泣いていたような空気が漂っている。
扉が、静かに開いた。
そこに立っていたのは、制服のままの少年だった。髪の先が少し濡れている。
「……あの」
小さな声。
「入っても、いいですか」
「うん」
遥が頷くと、少年は躊躇うように中へ入ってきた。
椅子に座るまでの間も、視線はずっと下を向いたままだ。
「最近、眠れなくて」
少年は、か細い声で言った。
「夜になると、いろんなこと思い出して……。
なんかもう、消えたいなって、思うんです」
その言葉を聞いても、遥はすぐには何も言わなかった。
ただ、机の上のコップに入った水を指でゆっくりなぞっていた。
「……消えたいって思うときってさ、何がいちばんしんどい?」
少年はしばらく考えてから、ぽつりと答えた。
「朝、目が覚めること。
また一日が始まるって思うと、息するのも重くなる」
その声は、かすかに震えていた。
遥は、小さく息を吐く。
「……そっか。朝って、ちゃんと生きてる証明みたいで、余計に苦しくなるんだよな」
そう言ってから、少し笑った。
「俺も、そうだったよ。目が覚めるたびに、“また今日か”って思ってた」
少年が顔を上げる。
そこには“理解”というより、“安心”が少しだけ浮かんでいた。
「今でも、そんなこと思うんですか?」
「たまにね。
でも、そのたびに思うんだ。
“消えたい”って思ってる間は、まだここにいるってことだって」
少年は何かを言いかけたが、言葉が喉で止まった。
代わりに、小さくうなずいた。
静寂が戻る。雨音が遠くで続いている。
「……生きてても、いいのかな」
少年の声は、壊れそうに小さかった。
遥は少し間を置いてから、優しく言った。
「いいよ。
っていうか、“生きててもいいのかな”って考えられる時点で、もう生きてる。
今ここに来てる時点で、ちゃんと選んでるよ」
少年の目が、ほんの少しだけ潤んだ。
そのまま視線を落とし、何度も息を整える。
「……今日、ここに来てよかったです」
「うん。
でもさ、無理に元気にならなくていいから。
“生きてる”ってことだけ、今はそれでいい」
少年が帰ったあとも、しばらく椅子の温もりが残っていた。
遥は窓を少しだけ開け、湿った夜風を吸い込む。
息をする音が、静かな部屋に溶けていった。