遥は目を逸らしたまま、ひどく静かな声で言った。
「……おまえの目が、いちばん気持ち悪い」
それは反射だった。
守るための、拒絶。
日下部が口を開けば、すべてが崩れる気がして。
ほんとうは自分がいちばん、その目を求めていることを認めたら、もう立っていられないから。
けれど日下部は、やはり何も言わなかった。
それが遥を余計に追いつめた。
睨みつければ壊れるような関係なら、こんなにも怖くはない。
沈黙の中、遥は乱暴に椅子を蹴って立ち上がった。
その勢いで、足元が少しふらつく。
痣だらけの膝、内出血の痛み。けれどそれすら「ちょうどいい」と思っている自分がいる。
(痛みでも感じてなきゃ、頭の中、壊れそうで)
鞄を掴んで、教室を出る。
追ってくる気配はない。
そのはずだった。
──なのに。
昇降口の手前、薄暗い廊下。
もう誰もいない時間帯の学校の奥で、靴箱の前に影がひとつあった。
日下部だった。
遥は、止まった。
「……なに、してんだよ」
答えは返ってこない。
ただ、遥のローファーが日下部の手に抱えられていた。
拭っていた。つま先に書かれた油性ペンの文字を。
《共犯者》
黒い、重たい言葉。
何度も濡れた布で擦っても、完全には落ちない。
でも、日下部は指先に赤く滲むまで拭っていた。
遥は息を詰めた。
喉の奥が焼ける。
逃げなきゃ、と体が言う。でも脚は動かない。
「やめろよ……」
そう言った声は、涙みたいに震えていた。
止めたいのは自分だった。
そんなふうにされると、
「許される可能性」を、思ってしまうから。
──それが、いちばん怖い。
「……もう、ほっとけよ。巻き込んだのおれなんだ」
また目を伏せる。
日下部の指は止まらない。
言葉はない。
けれどその背中は、
遥の「自罰」に触れてしまっていた。
なにも言わずに、ただ黙って、穢れを拭おうとするその姿が、
遥には、いちばんの暴力だった。
(もうやめろ……頼むから……)
心の中で叫ぶ。
けど、声にならない。
立ち尽くしたまま、遥はやがて震える肩を押さえた。
壊したのは自分だ。
けれど、まだ壊れきっていない姿で立っている“被害者”が、
許されない。
だから──遥はその場から逃げた。
「……勝手にしろよ」
背を向けた声は、かすれていた。
日下部は追わなかった。
ただ、薄暗い廊下の中で、遥の靴の黒い落書きを、指先で擦り続けていた。
──その沈黙が、遥を追いかけていた。