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沈黙を破ったのは、沙耶香だった。
「日下部くん。あなた、勘違いしてない?」
声は静かで穏やか。
けれど、机の上に置かれたその手は、白く血が引いていた。
「遥のこと……“助けられる”なんて思ってるの?」
沙耶香がゆっくり立ち上がり、遥の背後に回る。
(やめろ……やめろやめろやめろ……)
日下部の喉が震える。
その一瞬の怯えを見逃さず、沙耶香は遥の肩を掴んだ。
細い肩が、硬い音を立てて揺れる。
「ほら、こんなに弱いのよ。
あなたが触ったら壊れちゃう」
遥は歯を食いしばって耐えた。
「……い、いてぇって……」
「声を出さないの。みっともない」
沙耶香の指が、痣の上を押し込むように力を加える。
日下部が半歩踏み出した瞬間——
「動くなよ」
晃司が低く、底のない声音で釘を刺す。
「他人の家で、勝手に手ぇ出す気か?」
視線だけで、日下部の全身を縫い留めるようだった。
その間に、颯馬がゆっくり遥の前へ歩き、
しゃがみこんで、その顔を覗き込む。
「なぁ遥」
笑っている。
兄弟らしい優しさの仮面を、一切つけていない笑いだ。
「お前、学校で倒れたんだって?」
遥は反射的に日下部のほうを見かけたが、
すぐ首を下げ、唇を噛んだ。
「……べつに、倒れてねぇし……」
「嘘つくなよ」
颯馬の指が遥のわき腹を押し込む。
遥の体が、電流が走ったように跳ねた。
「声、出すな。兄弟に迷惑かけんな」
押し込んだ指の位置は、
遥が普段、痛みをかばって触れない場所だった。
「っ……ぁ……っ……!」
耐える呼吸が喉で痙攣する。
「ほら、見ろよ日下部」
颯馬は振り返り、笑ったまま言う。
「お前、こういう“細かい場所”の痛み知らねぇだろ?
俺らは家族だからさ、どこを押せば黙るか、全部分かってんだよ」
——殺意ではない。
——しつけでもない。
純粋な“支配の確認”。
日下部の指先が震えた。
「やめろ……」
「は? 聞こえない」
「やめろって言ってんだよ!!」
叫んだ瞬間、晃司が一歩だけ近づく。
その一歩。
それだけで、日下部は全身が硬直した。
晃司の声は静かすぎるほど静かだ。
「ここは家だ。お前の場所じゃない。
“誰の前で”“誰に向かって”、声を荒げてる?」
威圧でも怒鳴りでもなく、
ただ事実だけを突きつける声。
日下部の肺が縮む。
(殴れない。手を出せない。
ここじゃ、俺はただの“外の子ども”だ……)
そんな日下部を横目で見ながら、颯馬は遥の耳元でささやく。
「な? 言ったろ。
日下部は、お前を助けられないんだよ」
遥の体が小さく震えた。
「……ちが……」
「違わねぇよ。
ほら見ろ。お前の“守ってくれる人”は、何もできない」
その言葉に、遥の視線が崩れ落ちるように揺らぐ。
日下部は口を開くが、声にならない。
怜央菜がそこで静かに締めくくった。
「ねえ日下部。
あなた、今日来て良かったでしょ?」
「……は?」
「これがうち。
これが“遥の毎日”よ」
怜央菜は柔らかく笑う。
「あなたが何かしようとすれば、全部逆効果になる。
だから——離れたほうがいいの」
遥の胸が大きく波打った。
「ちがっ……日下部、離れんなよ……」
泣き声にも怒りにもならない、
かすれた声だった。
颯馬が、遥の髪を乱暴に掴み上げた。
「うるせぇ。兄弟の前で泣くな」
遥の顔が引き上げられる。
涙がにじむ。
「泣いたら、もっと痛い目みるぞ」
それは“脅し”ではなく、
日常の“決まりごと”のように淡々としていた。
日下部は見ているしかできない。
(……なんで……っ
なんで俺は……っ)
拳を握っても、足を踏み出しても——
一歩が、どうしても越えられない。
その一歩を越えれば、
遥にもっと重い罰が落ちることを、
この家の空気が教えているから。
晃司が低く言った。
「帰れ。今日はもう十分だろ」
拒めば、また遥に何か起こる。
だから、日下部は唇を噛み血の味を感じながら、うなずくしかなかった。
玄関に向かいながら、
背後でかすれる遥の声が聞こえた。
「……いかないで……」
振り返れない。
振り返った瞬間、誰かが遥を押さえつける気配がしたから。
日下部の胸を、砕くような無力感が締めつけた。
(ごめん……ごめん……
なんで……俺は、ここで何もできねぇ……)
ドアが静かに閉まり、
日下部だけが外に放り出された。
家の中に残った遥は、
声も出せず、ただ呼吸だけを震わせていた。