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放課後の廊下は、妙に明るかった。
窓の外で沈む夕陽が、磨かれた床を赤く染めている。
その光の上を、日下部の靴音だけが響いた。
──足音のたびに、胸の奥が軋む。
今日一日、何度も目を逸らした。
見てはいけないものから。
聞こえなかったふりをした声から。
そして、自分自身から。
教室の隅に残っていたのは蓮司だった。
彼は机の上に腰かけ、ノートをぱらぱらとめくっている。
無造作なその仕草の中に、なぜか異様な静けさがあった。
「……帰らないのか?」
日下部がそう言うと、蓮司は微笑んだ。
「日下部もでしょ。この時間まで残ってるなんて珍しい」
「……気づかれたくなくて」
「何を?」
沈黙。
日下部の唇がかすかに震えた。
蓮司は、そのわずかな揺れを逃さない。
机から降りて、距離を一歩詰めた。
「日下部、今日ずっと見てたよね。
……止めようとして、止めなかった」
その言葉が、胸の奥を正確に突いた。
息が詰まる。
言い訳も否定も出てこない。
自分が何を見たのか──わかっている。
「仕方ないよ」
蓮司の声は、あくまでやさしかった。
「誰も助けられない。
助けたら、自分も壊される。
そういう場所だって、知ってるだろ?」
正しい言葉のように聞こえた。
日下部の中で、何かがわずかに緩む。
罪悪感が形を失っていく。
痛みの隙間から、奇妙な安堵が流れ込む。
「でも──」
日下部は、言いかけて飲み込む。
“でも、それでも”と続けたかった。
それを言えば、また責められる気がした。
蓮司はその沈黙を、優しく断ち切る。
「お前は、よくやってる。
今までのこと思えば、もう見てるだけしかできない。
それでも苦しんでるなら──十分、いい人間だよ」
その言葉が、恐ろしいほどやさしく響いた。
“許された”ような錯覚。
“理解された”ような錯覚。
──けれど、それは錯覚だった。
蓮司の声の奥には、冷たい微笑みが潜んでいる。
慰めの皮を被った支配。
その声が、日下部の心の奥へ、静かに入り込んでいく。
窓の外で、夕陽が沈んだ。
教室の中に残るのは、赤い残光と、ふたりの影だけ。
「……なあ、日下部。
もしまたあいつが、何かされたら──
今度は、お前はどうする?」
答えられなかった。
その沈黙を、蓮司はまるで“了承”のように受け取った。
笑みが、闇の中に浮かぶ。
──侵食は、もう始まっていた。