テラーノベル
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#成り上がり
#死に戻り
#ハッピーエンド
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その日の午後、サベリオは一人で町を歩いた。
ランブリング班の見回りではない。誰かに頼まれた修理でもない。ただ、自分の足が向くままに、ラゴーナの春を確かめたかった。
しずくシェルターの裏手では、雨を吸った土がやわらかく沈んでいた。石畳の割れ目からは細い草がのぞき、橋へ向かう坂道には、去年自分が打ち直した手すりがまだまっすぐ立っている。
サベリオは立ち止まり、指先でその木肌をなぞった。紙やすりをかけた時の粉の匂いまで思い出せる。あの日は風が強くて、ミゲロが「鼻の穴まで木になる」と文句を言っていた。
笑いそうになった。
少し先では、モルリの屋台用の布が干されている。色あせた端は前に縫い直したところだ。市場の横を通ると、排水溝の蓋のがたつきが耳に入る。あれも自分が直した。つい先月、夜のうちに雨水があふれそうになって、ひざまで濡れながらボルトを締めた。
星降る橋のたもとに着くと、川風が上着の裾を揺らした。欄干の一本一本に、これまで何度触れただろう。落ちそうな提灯を結び直し、滑る板へ砂をまき、誰も見ていない朝に釘を打ってきた。
たいした仕事じゃない。そう思っていた。
けれど、ここへ来るたび胸の奥が落ち着くのも本当だった。
橋の向こうには、山肌に沿って家々の屋根が連なっている。雨が来れば色が深くなり、晴れれば瓦の端に光が細く乗る。そのどれもを、サベリオはずっと好きだったのだと、ようやく認められた。
「何してるの」
声に振り向くと、デシアがいた。録音機の代わりに、今日は薄いノートを抱えている。
「見回り、じゃなさそう」
「うん。たぶん、確認」
「何を?」
サベリオはすぐに答えられなかった。けれど、答えはもう胸の中にあった。
「僕、ここが好きみたいだ」
言ってしまうと、恥ずかしさより先に肩の力が抜けた。
デシアは少しだけ目を細める。
「今さら?」
「今さら」
「遅いね」
「知ってる」
からかわれているのに、不思議と痛くない。
橋の下を流れる水の音が、いつもより澄んで聞こえた。デシアは欄干へ手を置き、町のほうを見たまま言う。
「私は音で分かるけど、サベリオは匂いとか手ざわりで覚えてるよね」
「そんなに出てる?」
「出てる。雨上がりの木の匂いの話、三回は聞いた」
思わず吹き出すと、デシアも笑った。
自分が守りたいものは、人でも、夢でも、祭りでもある。けれどその根っこには、この町で朝を迎える感覚そのものがあった。
雨どいの流れる音。床板の乾く匂い。誰かが窓を開ける朝。壊れたところを直すと、町が少しだけ安心した顔になること。
サベリオは欄干を軽く叩いた。
「僕、ここで働きたい。ここを直して、守っていきたい」
やっと、声になった。
デシアは何も言わない。けれど横顔が、ほんの少しやわらいだ。
川の上を通り雨の匂いがかすめる。まだ降っていないのに、空だけが先に知らせてくる。
その気配さえ、サベリオにはもう愛しかった。