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121
あも
教室は、さっきまで普通に回っていた。
笑いもあって、雑談も流れていて、誰も浮いていない。
均一で、なめらかな状態。
その中で、ほんの少しだけ、ズレが生まれる。
「そこまで言うほどじゃないと思う」
遥の一言は、小さかった。
主張するつもりも、逆らうつもりもない。
ただ、思った通りをそのまま出しただけだった。
それだけで、空気が止まる。
止まる、というより、切り替わる。
今までの流れが、一度切断される。
「……は?」
誰かの声が、低く落ちる。
さっきまでの笑いは残っていない。
誰も続けない。
“今のは違う”という認識が、一瞬で共有される。
遥は、その変化を理解する。
遅れて。
(やった)
そう思った時には、もう遅い。
「お前さ、何で今それ言うの?」
問いは、確認じゃない。
責めでもない。
“位置の確認”。
どこに立っているかを、はっきりさせるための。
「別に……」
言葉が続かない。
続けた瞬間に、もっと崩れるのが分かる。
「別に、じゃねえだろ」
遮られる。
間を与えない。
「流れ分かってる?みんながどういうテンションで話してるか」
一人が立つ。
椅子の音が鳴る。
それだけで、全体の密度が変わる。
遥の周りの距離が、自然に詰まる。
逃げ場は、最初からない。
でも、“囲まれている形”がはっきりする。
「毎回それなんだよな」
別の声。
「空気読めてないとかじゃなくて、読もうとしてないだろ」
「で、変なこと言ってさ、場止める」
言葉が重なる。
順番じゃない。
重ねて、逃げ道を消す。
遥は、何も言わない。
言っても意味がない。
もう、その段階は過ぎている。
「黙るのも違うから」
すぐに言われる。
「何も言わないでやり過ごそうとするの、マジでムカつく」
腕を掴まれる。
さっきまでとは違う強さ。
指が食い込む。
「立てよ」
引き上げられる。
バランスを取る間もない。
椅子が後ろで音を立てる。
それを誰も気にしない。
「分かってない顔してるけどさ」
顔を覗き込まれる。
距離が近い。
逃げられない距離。
「今、お前がやったことってさ、普通に全員に水差したって分かる?」
問いかけの形をしている。
でも、答えは一つしかない。
遥は口を開く。
「……分かってる」
言った瞬間、首を掴まれる。
躊躇がない。
一気に。
呼吸が途切れる。
「分かってねえから言ってんだろ」
声が近い。
息がかかる距離で、はっきりと言われる。
「分かってるやつは、そもそも言わねえんだよ」
力が強まる。
喉が潰れる。
空気が入らない。
周りから、笑いが混じる。
軽くない。
“いつものこと”としての笑い。
「ほら、こういう感じな」
別のやつが言う。
「詰まるだろ?息できなくなるだろ?今お前がやったの、それだから」
理屈が後付けされる。
暴力に意味が与えられる。
それで正当化が完成する。
遥は、反応しない。
できない、じゃない。
しない。
ここで抵抗したら、余計に長引く。
それも分かっている。
「答えろよ」
さらに締まる。
視界が揺れる。
「なんでこうなってるか言え」
声は一定。
怒鳴らない。
だからこそ逃げ場がない。
遥は、喉を押し潰されたまま言葉を出す。
「……俺が、空気壊したから」
「それだけ?」
間髪入れずに来る。
「それだけで済むと思ってんの?」
背中を蹴られる。
軽くじゃない。
体が前に崩れる。
でも、首は掴まれたまま。
逃げられない。
「毎回それでさ、同じこと繰り返してるのが問題なんだろ」
「一回じゃねえからな、これ」
周囲が補足する。
個人の問題から、継続の問題へ。
逃げ道をさらに消す。
遥は、息を探しながら言う。
「……分かってなかった。ちゃんと分かってなかった」
修正する。
遅れてでも。
「どう分かってなかったか言えよ」
すぐに来る。
止まらない。
「自分がどれだけズレてるか、分かってなかった」
言葉を繋ぐ。
途切れさせない。
ここで止まれば、やり直しになる。
数秒の間。
その間も、手は離れない。
「じゃあどうすんの」
「……合わせる。余計なこと言わない」
やっと、力が少しだけ緩む。
完全には離れない。
「最初からそれやれよ」
吐き捨てるように言われる。
最後に、もう一度だけ強く締められる。
意図的に。
記憶に残すために。
それから、手が離れる。
空気が一気に入る。
でも、咳は出さない。
出したら、また何か言われる。
分かっている。
「ほんと面倒なんだよな、こういうの」
「一人のせいで止まるの、だるいからやめてくんない?」
もう視線は外れている。
終わった扱い。
会話が戻る。
笑いが戻る。
さっきまでと同じように。
遥だけが、その場に少し遅れて残る。
首に残る圧が、はっきりしている。
(またやった)
思考が落ちる。
どうすればよかったかは分かっている。
最初から、何も言わなければよかった。
合わせればよかった。
それだけで、何も起きなかった。
(自分のせいだ)
疑いはない。
この構造の中で、それ以外の答えは存在しない。
だから、次は間違えない。
間違えなければ、こうはならない。
その単純な基準だけが、残る。
コメント
1件
第59話、読ませていただきました。遥がほんの小さな一言を発しただけで、空気が一瞬で凍りつき、暴力へと雪崩れ込んでいく流れが、あまりにリアルで胸が締め付けられました。特に「位置の確認」や「記憶に残すための一撃」といった、加害側の計算し尽くされた冷酷さが生々しくて。遥が「自分のせいだ」と無意識に納得してしまう構造も、読んでいて苦しかったです。でも、この閉塞感を細やかな心理描写でこれだけ描けるのは、ruruhaさんの筆力だからこそだと思います。次が気になります……。