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放課後の相談室は、いつもより静かだった。
窓の外で部活の声が遠くに反響しているが、この部屋まで届く頃には、ただの背景音に変わっている。
ドアがノックされるまで、遥は机に肘をつき、ノートを眺めていた。
顔を上げる。
「どうぞ」
入ってきた相談者は、立ったまましばらく動かなかった。
椅子は空いているのに、座るタイミングを失ったみたいに。
遥は何も言わず、椅子を指で軽く示した。
それだけで、相談者はようやく腰を下ろした。
沈黙が落ちる。
気まずさではなく、言葉が見つからない沈黙。
「……あのさ」
相談者が、やっと口を開いた。
「“悩みがあったら相談しろ”って、よく言うじゃん」
遥は相槌を打たない。続きを待つ。
「でもさ。どうやって?」
声は低く、少しだけ笑いが混じっていた。
自嘲に近い。
「相談って、ちゃんとした悩みがある人のものじゃん。
何がつらいか分かってて、説明できて、答えが欲しい人の」
相談者は視線を落とす。
「俺、そこまで整理できてない。
つらいかどうかも、よく分かんない」
しばらくして、遥が口を開いた。
「相談って言葉が、重すぎるんだと思う」
相談者が顔を上げる。
「重い?」
「“悩み”って名前がついた時点で、形が決まる。
理由があって、原因があって、どうしたいかがある、みたいな」
遥はゆっくり言葉を選んでいた。
「でも実際は、その前の状態のほうが長い。
名前もついてないし、説明もできない」
相談者は小さく息を吐いた。
「それな。
で、そういう状態で相談しようとするとさ、
『で、何が言いたいの?』って顔される」
遥は一瞬だけ目を伏せた。
「それで黙る人、多い」
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
相談者の声が、少しだけ荒くなる。
「相談しろって言われるけど、
相談できるほど言葉があるなら、ここ来てない」
遥は否定も肯定もしなかった。
「最初から“相談”しなくていい」
「え」
「“分かんない”って言うところからでいい」
相談者は眉をひそめる。
「それ、迷惑じゃない?」
「分かんない状態を、分かんないまま出すのは、迷惑じゃない」
遥は視線を外さず続けた。
「無理なのは、“ちゃんとした形”を求められること。
最初から答えを出そうとすること」
机の上に置かれた鉛筆を、遥は指で転がした。
「相談って、助けを求める行為だと思われがちだけど、
実際は、自分の状態を外に置く作業に近い」
「外に……置く?」
「頭の中だけにあると、どんどん歪む。
言葉にできなくても、外に出すだけで、輪郭が見えてくる」
相談者はしばらく黙っていた。
「……それでもさ」
「うん」
「大したことないって思われたら、って考えると無理」
遥は少しだけ間を置いた。
「“大したことない”かどうかは、話す前には決められない」
相談者が顔を上げる。
「決めるのは、話したあとだ。
それも、本当は相手じゃなくて、自分」
「……」
「相談できない人ほど、自分の悩みを過小評価する」
遥の声は淡々としていたが、重さがあった。
「『こんなの言うほどじゃない』
『もっと大変な人がいる』
そうやって、自分の状態を後回しにする」
相談者の指が、膝の上で強く組まれる。
「……じゃあさ」
「うん」
「どうやって始めればいい?」
遥はすぐには答えなかった。
「“相談しに来ました”じゃなくていい」
「……」
「『よく分からないんですけど』
『言葉にできないんですけど』
それで十分」
相談者は、少しだけ肩の力を抜いた。
「それ、逃げじゃない?」
「逃げじゃない」
遥ははっきり言った。
「入口がそこにしかない人もいる」
沈黙が戻る。
さっきより、少しだけ柔らかい沈黙。
相談者は小さく笑った。
「……じゃあ俺、今、相談してる?」
遥は首を横に振らなかった。
「してる」
相談者は、驚いたように目を瞬いた。
「気づかないうちに、もう始まってることもある」
外の部活の声が、少し近くなった気がした。
相談者は立ち上がり、ドアに向かいながら振り返る。
「……また、来てもいい?」
遥は頷いた。
「言葉が見つからないままで」
ドアが閉まる。
遥は一人になった相談室で、ノートに一行だけ書いた。
――相談の入口は、たいてい“分からない”ところにある。