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玄関の鍵が閉まる音は、いつものものなのに、今日はどこか湿って響いた。
リビングに置きっぱなしのカバンに小さく目を落としながら、遥は靴を脱いだ。
家に帰るときの空気の重さは、いつだって身体の奥で鈍く鳴り続けている。
「おかえり、遥」
声は背後から。
足音を隠すように歩く癖は昔からだ。聞こえなくても、気づく。
颯馬がそこにいるとわかると、遥の呼吸はいつも自然に浅くなる。
けれど今日は……少しだけ、それすら遅れた。
「……ただいま」
返す声は小さいが、怯えの震えは薄かった。
それを颯馬は逃さない。
にやり、と口角がゆっくり持ち上がる。
「なぁ遥。今日、あいつに会ったぞ」
“あいつ”。
名前を出さなくても、誰のことかはわかる。
遥の胸の奥が、きゅっと縮む。
「……日下部のこと?」
「そう。わざわざ向こうから会いに来てさ。必死って感じだった」
颯馬は楽しそうに、指先で遥の肩を軽く叩く。
その“軽さ”が、逆に逃げ場の無さを示す。
「お前のこと、どうにかしたいんだと。……笑えるよな?」
遥は答えない。
返したら壊れる。
返さなくても壊れる。
そんな“二択にならない地獄”を、ずっと繰り返してきた。
颯馬は近づき、遥のあごを指でこすった。
触れたというより、“支配の印をなぞる”ように。
「でもさ、あいつ――俺に何もできなかったよ」
その言葉に、遥の視線が微かに揺れる。
わかっている。
何もできない。
できるはずがない。
殴ることも、怒鳴ることも、連れ出すことも。
“兄弟の家”という囲いの中で、日下部ができることなんて、そもそも最初から限られている。
だが颯馬は、遥の目の揺れを“勝利宣言を聞く観客”として味わうように、さらに顔を近づけた。
「“俺が一番近くにいられる”って、そういうことなんだよ。兄弟だからさ」
耳元で、落ち着いた声。
穏やかでさえあるのに、背筋が寒くなる。
「お前を一番よく知ってるのも、壊し方を知ってるのも、俺だろ」
肩を掴む手が、じわっと力を増していく。
痛いほどではない。けれど逃がさない。
その“逃がさなさ”が骨の深いところへ染み込んでいく。
「……なんで、そんなこと言うんだよ」
遥の声は、押しつぶされた呼吸のように弱い。
反抗でも怒りでもない。
ただ、疲れ切った問い。
颯馬は笑いながら、遥の額に軽くデコピンをした。
ぱちん、と乾いた音。
「なんで? 簡単だろ。
お前に“日下部なんかじゃ救えないこと”を思い出させるため」
遥の視線が揺れる。
胸の奥で、説明できない熱と冷たさがせめぎ合う。
「言ってたぞ。
“自分のせいで遥を追い詰めてる気がする”とか。
“距離を置くべきかもしれない”とか」
遥の呼吸が止まる。
それを颯馬は――待っていた。
きつく肩を掴み、逃げられない角度から目を合わせる。
「な? 笑えるだろ。
お前を守るために離れるってさ。
そんな奴、何ができるんだよ」
言葉は刃物みたいにするどいくせに、声は静かだ。
「俺は離れないよ、遥。
お前が折れても、泣いても、逃げても。
兄弟ってのは離れられないようにできてんだよ」
その“優しさの形をした呪縛”に、遥はいつものように何も返せなかった。
ただ――胸の奥の何かが、日下部の名前に反応して震えた。
それは助けを求める感情でも、期待でもない。
ただ、壊れていく心の底で、ほんの少しだけ灯る微かな熱。
その熱を、颯馬は当然のように潰しにかかる。
「お前さ、あいつの前で“平気な顔”してただろ?」
遥は目を伏せる。
今日の日下部の顔が、頭のどこかでゆっくりと浮かぶ。
「いいんだよ。もっとやれよ。
“助けられない日下部”を、お前が見せつけてやれ」
ゆっくり肩から手が離れる。
代わりに、背中を押すように軽く叩かれた。
「お前は俺の兄貴なんだからさ」
その言い方は弟の愛情に聞こえる形をしているくせに、
中身は完全な支配だった。
遥はうつむいたまま、声にならない息を吐く。
言葉を奪われ、選択肢を奪われ、感情を押し殺され――
それでも胸の奥で、日下部の顔だけが静かに疼いている。
(……なんで、追いかけてくるんだよ。
離れたほうがいいって、思わせんなよ)
言葉にならない叫びが、遥の喉でつまって消えた。