テラーノベル
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夜の校庭は、明かりがほとんど届かない。部活が終わった生徒たちの声も消え、風が砂を押す音だけが残る。
日下部は校舎裏の階段に腰を下ろし、手のひらに顔を埋めた。
今日一日の光景が頭の中で渦を巻く。
遥の“空っぽの目”。
あれは、ただの無気力じゃない。
恐怖を削られ、反応すら奪われ、心が静かに折れかけている表情だった。
あの瞬間から、胸の奥が妙にざわついている。
(……俺、何してんだよ)
颯馬の言葉が脳裏に蘇る。
『お前のせいで遥を追い詰めてるんだろ? 距離置くべきなんじゃない?』
あれは挑発だ。
わかってる。
わかってるのに――胸の底の、いちばん触れたくない場所に突き刺さって抜けない。
(俺が近くにいるから……余計に苦しんでるだけなんじゃねぇのか)
初めて、そんな考えが本気で頭に浮かんだ。
支えてるつもりで、実は押し潰してるだけ。
守るつもりで、結果的に逃げ場を奪ってるだけ。
颯馬の挑発は、外側だけの勝ち負けじゃない。
“日下部の自信”そのものに狙いを定めていた。
「……距離、置いたほうがいいのか」
口に出した瞬間、内臓が冷水を浴びたようにひやりとする。
逃げだ。
そんなこと、本人が一番わかっている。
でも、
“離れる=楽になる”
そんな誘惑は、普段なら絶対に考えもしないのに、今日だけは妙に現実味を帯びている。
それほど、遥の目が“危ない”ものに見えた。
(俺のせいで……あいつ、壊れるなら……)
言いかけて、頭を振る。
けれど否定できない気持ちが、喉の奥で燻っている。
「……どうしろってんだよ」
吐いた声は、驚くほど弱かった。
その声を、
“遥が聞いていた”という事実に、日下部はまだ気づいていない。
教室に忘れ物を取りに戻った帰りだった。
校舎裏のほうから聞こえたのは、日下部の声。
その声の弱さに、足が止まった。
覗くつもりなんてなかった。
ただ、動けなかった。
風に紛れた日下部の言葉。
『距離、置いたほうがいいのか』
その瞬間、
胸の奥で小さく息が切れた。
(……あぁ、まただ)
“自分のせいで離れる”
“近くにいる人ほど壊してしまう”
家で擦り込まれた呪いみたいな言葉が、骨の奥からふつふつと浮き上がる。
(俺のせいで……また)
声は出ない。
喉が痛むほど震えているのに、涙は出ない。
泣く段階は、とっくに過ぎた。
階段に座る日下部の背中は、いつもより小さく見えた。
強いのに、弱いところもあって、
それでもずっと“自分を見ていた人”の背中。
遥の指先が、ぎゅっと握られた。
(……俺、ほんとに……邪魔なんだ)
その思考が生まれた瞬間、
胸の奥で、家の支配が静かに再発火する。
『兄弟の負担になるな』
『傷つけるくらいなら、黙っていろ』
『いるだけで迷惑なんだから』
幼い頃から浴びてきた声が、
日下部の言葉を利用して蘇る。
(逃げられる……? 俺から……)
そう思ったら、身体の中心がすうっと冷えていく。
逃げられるなら――
逃げられるうちに――
距離を置かれたほうが、日下部は楽になる。
(俺のせいで苦しむの、嫌だ……)
そう呟くように目を伏せたとき、
靴の音が近づいた。
日下部が立ち上がった気配。
遥は反射的に階段の陰から後ろへ逃げ、息を殺した。
気づかれないように。
離れる前に、余計な“存在”を見せないように。
そうしないと、本当に――壊れてしまう気がした。
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